「俺むかしめっちゃ爪噛む癖あってん」
「そうなん」
「もう親の仇か言うぐらい噛み続けて指までいってもうててな」
「ブレーキが大幅に故障してるやん」
「でもオカンにさんざんみっともないみっともない言われたから中学上がったぐらいに直してん。だから今キレイやろ、ほら」
な、と言って瀬戸は眼鏡に当たるか当たらんかというほどの近距離にまで指を持ってくる。逆に見えへんねんと呟きつつ爪に目を凝らすと、そこは昨日見たときより少し短くなっていた。
「爪切ったん?」
「え?あ、うん。昨日切った」
言いながら瀬戸は自分の人差し指の爪を親指の腹で軽く擦った。ちょっとギザギザするわ、と口にしながら視線を空に向ける。
「なんか曇ってきたなあ」
「降ってきそうやな」
「傘持ってる?」
「持ってない」
「今日塾は?」
「ない」
「じゃあ俺の家こーへん?雨宿りしていったらええねん」
「ええの?」
「おう。今日オトンもオカンもおらんから気ぃ遣わんでええで」
「助かるわ」
じゃあ行こか、と瀬戸が尻を払いながら立ち上がる。その際、また爪の先を指でいじっていた。爪、切るほど長かったかな。言うほどでもなかったけど。……というか瀬戸の爪の長さをいちいち気にしている自分に少し引く。しかし『そういう』関係になってからというもの、なんとなく気にかけてしまう。
瀬戸は性的なソレをするときにほぼ必ず爪を切る。いくら互いに自制が利きそうにない状況でも、ちょっとでも爪が伸びていると思うと『ちょお待って』とストップをかけわざわざ爪を切り始めるのだ。べつに大丈夫やで、といくら言っても聞く耳を持ったことはない。ありがたいやら何やら、微妙な気持ちのままそれを眺めるのが通例になっている。そんな瀬戸が今日、爪を切ってきている。深い意味はない。と、思うのだが。
……いや、本当に意味はないのか?まず初めの噛み癖の話。あれがもし、俺が瀬戸の爪を強く意識するよう意図的にされた話なら。そして今のこの状況。瀬戸の家には父親も母親もいない。雨については、昨日天気予報を見ていれば事前に予測できたはず。……まさか本当に計算ずくか?最初からこいつは、俺がこいつの家に行く展開へと持ち込もうとしていた?そして家に行ったら、するつもりか、今日は。
「瀬戸」
名前を呼ぶと、大きく伸びをしていた瀬戸はこっちに振り返る。何?と訊いてくる声はいつもどおりとぼけているが、それすら策略のように思えなくもない。
「すんの、今日」
「え?何を?」
「いや」
「?」
「……爪切ってるし」
「??」
「誰もおらんのやろ、家」
クエスチョンマークをもうひとつ追加したあと、瀬戸はしばらく虚空を見つめこっちの言葉の意味を理解しようと黙り込んだ。少しの間のあと、ハッとした顔で視線を合わせてくる。同時にその顔が赤らみ始めた。
「え、いや。あのー。ちゃうねんほんまに。そういうつもりはほんまにまったくなかったんやけど、ほんまにほんまに」
「…ほんまにの酷使が過ぎるわ」
「え、はあ、なに、内海。えー、そんなん思ってもうたん?俺が爪切ってたから?」
「……いや」
苦し紛れに呟いたものの不覚にも言葉に詰まってしまう。くそ、考えすぎか。冷静に考えたらアホの瀬戸がそこまで巧妙に状況を操作できる訳がなかった。
瀬戸は赤い顔をそのままににやりとほくそ笑み、俺の顔を覗き込んでくる。
「へえー。期待してもうたん?オニ無欲ガッパの想くんが?へえー」
「人のことイジれる顔色ちゃうでお前」
「そんなん言うてもお前も顔真っ赤っかやん。あー、スケベやなー内海はー!」
小学生並のテンションで瀬戸は俺の周りをぐるぐると回る。失敗した、無駄な恥を晒してしまった。そそくさと眼鏡をかけ直しつつ瀬戸を軽く睨むが、それでも瀬戸はやたら上機嫌に跳ねつづける。苛立ちは更に増し、そのまま感情を隠さず言葉に乗せた。
「そもそも誰のせいでこうなったと思ってんねん」
「え?どういうこと?」
「だから。誰のせいでスケベになったと思ってんねんって言うてんねん」
ぴし、と瀬戸の動きが止まる。ぱちぱちと何度か瞬きしたあと、その顔が極限まで赤に染まった。バブル時代の女子大生の口紅より赤い。
「……お前ようそんなん言えるな。AVの導入ゼリフかと思ったわ」
「自分でもこんなセリフよくもハキハキと言えたなと思うわ」
肩にポツリと雨が当たる。一粒一粒と落ちてくるそれは、やがてパラパラと量を増やし始めた。眼鏡のレンズに雨粒が増えていくのを内側から見つめながら、その先の瀬戸と無言で視線を交わす。しばらくして、瀬戸はおずおずと口を開いた。
「……うち行く?」
「………行く」