この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。
ログイン |
苦しかったろう、とアスベルは紫を帯びていた自身の片目に指先を伸ばした。しわがれた手は震えながらも目の端を優しくなぞり、その動きに呼応するかのようにアスベルの口元が綻ぶ。すっかり色素の薄れた茶色い髪が、窓から出入りする風に乗じてほんの少し揺れ動いた。枕元に置いてあるクロソフィから花びらが一枚散って、ちょうどアスベルの顔の横にはらりと落ちる。ピンク色のそれを見て、ソフィは先ほどのクロソフィのように一粒の涙を散り落とした。しかし、それは悲しみを帯びているわけでもない。かといって喜びに満ち溢れているわけでもないが。ソフィ自身にも、自らが流した涙に含まれている感情がどんなものなのか、知り得てはいなかった。色で表すならば黄緑色に近いだろうと、彼女はぼんやり思考する。しかしソフィがそういった様々なことを考えている間にも、彼女がさきほどから1秒たりとも目を逸らすことなく見つめている、目前のベッドに横たわる父親代わりの老人は実に幸せそうに微笑んでいた。それだけで、もうじゅうぶんだと、ソフィは心の底から思っている。あなたが最後に、そんな風に笑顔でいられる人生を歩めていたなら、わたしはそれで満足だと。彼女は胸中で全身に染み渡らせるように呟いた。そして、アスベルが最後の瞬間までとある一人このとを忘れていなかったことを知れて、彼女は今とても、幸せを感じていた。アスベルの中に、ラムダと呼ばれた一つの存在が未だ強く根づいていることが、ソフィにはたまらなく嬉しかったのだ。
殴るのは、蹴るのは、噛みつくのは、引っ掻くのは、いつもあたしだけだった。痣ができて血が出て傷跡ができるのは、いつもさやかだった。喧嘩をするたび、沸点の低いあたしはすぐに手が出て足が出て、さやかをぼろぼろにしてしまう。それでもさやかは怒鳴ったりするだけで、あたしを傷つけることは絶対にしなかった。どうしてかとこの間訊いてみたら、杏子には傷が残っちゃうでしょ、だって。あんたの肌はまあまあ白くて綺麗なんだから、怪我残したりはしないよ、だって。魔力のおかげですぐに怪我が治るから、そんなことを言ってるんだ、さやかは。いくら魔法が傷を全部治してくれるからって、心はどうにもならないのに。あたしが体につけた傷の分は、きっとそのままさやかの心に傷跡を残してる。治ったなんて嘘なんだ。自分がたまらなく嫌になって、許せない。
うぜえ。ああうぜえ。俺の部屋に、しかも長年愛用しているベッドの上に陣取っている野郎は明らかに害虫のあいつだった。俺が飛び起きたせいでぐちゃぐちゃになった布団は寝ている間にほとんどこの害虫に横取りされていたらしい。どうりで寒いわけだ。よだれを垂らして布団を手繰り寄せるアホ虫は、にへらにへらと間の抜けた笑みを浮かべている。普段は虫ずが走るほど整えられている黒い髪がぼさぼさに跳ねていて、使い古されているんだろう灰色のスウェットは不格好によれていた。気だるげに腹を掻く姿はおっさんそのものだ。容姿端麗も何もあったもんじゃねえ。こいつの身なり褒めてた奴全員に見せてやりたいザマだった。いや、そんなことを言ってる場合でもない気がする。どうしてこいつがここにいるのかを、まずは考えるべきだろう。寝起きのせいで頭がうまく働かないのかそれが二の次になってしまった。
今年からアパートで一人暮らしを始めた俺の部屋は、家賃が安い割にけっこう広くて立地条件も良く、自慢の部屋だった。ただ男の性かなんなのか、俺は掃除が苦手だ。脱いだ靴下は脱ぎっぱなしで放置、取りこんだ洗濯物はタンスに片づけもせず部屋の四方八方に散らかっていた。四隅を歩くと埃が舞い、白かったはずの壁は微妙に黄色く変色している。恋人に掃除を頼んでみたこともあるが、向こうも俺と同じぐらい掃除が嫌いらしく丁重に断られた。まあそんな風に散らかり放題だった俺の部屋が、大学から帰ってくると、なんの前触れもなく見違えるほど綺麗になっていたとしたらどうする?
3話後