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セトウツ(瀬戸内海)

ぱち、ぱち、と規則的に音が響く。真剣な眼差しで自分の手の爪を見つめる瀬戸は、またひとつ三日月形の白をティッシュの上に降らせた。
「……瀬戸」
「あ、ごめん。もうちょっとで終わるわ」
こっちを一瞥もせず瀬戸はそう呟く。それからまたすぐに沈黙が訪れた。ぱち、ぱち。子守唄の如く響く音は、普段聞くなら心地よさすら感じるだろう。が、今はただただ煩わしい。
瀬戸はセックスの前に必ず爪を切る。理由は、瀬戸いわく「引っ掻かれる痛さを俺はミーニャンに教えてもらったねん。だから己の爪で誰かを傷つけることはしたくない」とのことらしい。無駄にカッコいい言い回しが鼻につく。で、その教訓に則り瀬戸はいくら自分の理性に限界が来ていようと爪を切るのだが、ここで問題なのが相手の感情すら度外視なところだ。瀬戸が自分の信念に基づいて爪を切るのは瀬戸の勝手だ。だが、爪を切る瀬戸を見ながらこっちは何を考えていればいいのか。たいていの衝動は理性でコントロールできる。だから、耐えられないというほどの話ではないが。ただ単純にこの時間がいたたまれない。これから抱かれるという前提で、傷つけないようにと目の前で爪を切られている。それを隣で享受しなければならないのは正直羞恥をあおられた。もちろん瀬戸はこっちの心情など知る由もないだろうが。
「瀬戸」
手持ち無沙汰な声帯でとりあえずまた名前を呼んでみるが、返ってくるのは空返事だけだった。ほんまに抱く気あるんやろなこいつ。と毎回思えどこれが終わるとすぐベッドに手を引かれるから、むしろ抱く気がある故の空返事なのだろう。考えれば考えるほどいたたまれなくなる。爪がティッシュに落ちるのをただ見つめながら、瀬戸の横顔を眺める。……瀬戸のくせに何を一丁前に焦らしとんねん。いよいよ腹が立ってきた。
「瀬戸」
「んー?」
仕返しに少しからかってやろう。そう思い、今度は明確な意思を持って瀬戸の名を呼んだ。相変わらずの空返事を無視し、肩が触れ合う距離まで近づく。次に、爪切りを構えるその右手に自分の手を這わせた。手の甲に指を滑らせると、瀬戸の体がびくりと跳ねる。
「う、内海?どうしたん」
「……あんな。昨日廊下でガッちゃんに会ったときに聞いたんやけど。また二人で金出し合って本買ったんやろ?」
「え、ああ、うん。そう。買った買った」
「でもそれが上下巻ものって買ってからわかったとか言うてたけど」
「あー、そ……そうやねん。買った次の日にガッちゃんがそれ言うてきてな。いやはよ言えや!言うたら『わしも今日知ったんじゃ!』とか言うてき、……て…」
そこそこにどうでもいい日常会話を繰り広げながら、瀬戸の手を柔くなぞる。浮き出た血管を指で辿ったあと、切られたばかりの爪の先端を軽く擦った。やすりで研がれたそこは綺麗に丸くなっている。いくつかの爪の先に触れたあと、もう一度手の甲に指を戻してそこに弱い力で自分の爪を立てた。瀬戸の体が再度びくつき、言葉が詰まる。その顔はすでに面白いほど赤い。
「ほいで、どうするん。下巻も買うん?」
「……いや、買ったんが下巻やから読んでも全然意味わからんくて、絶対上巻買わなあかんねんけど……」
瀬戸の目がうろうろとあたりをさまよう。構えていた爪切りを奪い取りその指の間にこっちの指を滑り込ませていくと、瀬戸の顔はついに耳まで赤くなった。吹き出しそうになるがなんとか笑いを堪える。
「目が四つあってどれも下巻の文字に気づかんのはすごいな」
「いや、う、内海」
「なに?」
手元に落とされつづけていた視線がようやくこっちに向いた。戸惑いを隠しもせずぶつけてくる瀬戸は、あの、と頼りなげに言葉を発する。
「ちょ、ちょっと今あんまり、アレされると」
「アレってなんや」
「ほんまにあの、切られへんくなるから」
「なんで」
「なんでてお前」
顔中にこれでもかというほどの困惑を浮かべながら瀬戸がまた視線を右往左往へ揺らす。なんなん、と一言追い打ちをかけてやると、額に滲んだ汗を光らせながら蚊の鳴くような声でまた喋りだした。
「ええとぉ、あんまりな?あんまり、さ、触られたらな」
「うん」
「我慢がそのー、利かんようなってまうやん」
「我慢てなんの?」
「………ゆ、許してくれ内海」
袋小路に追い詰められた人間の顔を体現した瀬戸を前に、耐えきれずついに吹き出してしまった。そろそろ火でも出そうなその顔を横目に、しゃあない、と呟く。……瀬戸をいじる手はそのままに。
「待っといたるからはよして」
「……全方向に爆弾あるボンバーマンの如く追い詰められてるわ、今」



途中からわけがわからなくなったけど欲望はぶつけられました(作文)

セトウツ(瀬戸内海)

「チューしていい?」
なんとなく瀬戸の家に呼ばれて、なんとなくしていた会話に沈黙が生まれて、二人なんとなく顔を寄せて、俺がなんとなく目を閉じようとしたちょうどそのとき。瀬戸がわざわざ俺にそう確認を取ってきた。
「普通そんなん訊かんと思うで」
「え?でももし嫌やったら困るやん」
「空気をうまく読めってことや。いちいち『いい?』って確認して相手に了承を取らせるいらん段階を踏むことでお前は相手に不必要な羞恥心を抱かせてんねん」
「それはごめんやけど、俺はこういうとこちゃんとしたい派やねん」
「『派』を持ち出して思考の多様化を強要するのは良くないと思うで」
「あーもー、話どんどん長なっていくわ。それで、結局チューしてもいいん?」
キスのことをわざわざ『チュー』と呼称してることにも正直引っ掛かりを覚えているが、そこまで指摘しているとこいつの言うとおり話の終わりが見えなくなってしまう。瀬戸が聞きたいのはキスしていいかどうかだ。……ほんまにこの状況、無駄な羞恥心を抱かされてて腹が立つ。
「見たらわかれへん?」
「え?」
「目ぇ閉じようとしてたやろ、俺」
「えー、いや、気づかんかった」
「なんで気づけへんねん」
「五メートル前から目閉じてたから俺」
「キス一つに対してあまりに不必要な助走やな」
「え、つまりオッケーってことなん?」
「ああ、うんうん。もうオッケーってことや。こんなんあんまり言わせんといてくれる」
ため息を吐きながら半ばやけくそでそう呟く。瀬戸は『おっしゃ』とガッツポーズを決めたのち俺の両肩に手を置いた。内海、いくで。そう口にする瀬戸の表情は切腹前の戦国武将ばりに思いつめている。というか眼力がすごい。俺やからまだええけど、もし女子にこんなんやったら最寄りの警察に駆け込まれるぞコイツ。
「あの……目ぇ閉じてくれ」
見つめ合った状態でしばらく沈黙していたとき、ふいに目の前の視線が逸らされその口がもじもじと言葉を放った。
「いやお前が閉じろや。五メートル前から目閉じる万全性どこ行ってん」
「いや、なんかタイミングわかれへんようなってもうた。ていうかなんでそんな眼力強いねん」
「お前の圧に合わせてんねん」
「とにかくいったん閉じてくれ、どえらいやつかますから」
「今ので俄然閉じたなくなったわ」
言いつつ、このままでは夜中までかかりそうな気配を察知し渋々目を閉じてやる。肩に置かれている瀬戸の両手に力がこもり、前からは必要以上に大きな咳払いが聞こえた。何度か深呼吸しているのがわかる。やがて、上擦り掠れた声が『内海』と呟いた。咳払いの意味ないやん。
「いくで」
「うん」
時計の秒針が部屋に響く。瀬戸は最後の深呼吸を終え、おそらく顔をこちらに寄せてきた。顔に息がかかる。次の瞬間には唇に瀬戸の感触が、
「小吉ー!内海くん来てるん?」
ばち、と二人同時に目を開けた。思いのほか距離が近いことに驚き双方が弾けるように後ろへと下がる。階下から聞こえてくる声は考えるまでもなく瀬戸の母親の声だった。
「来てるんやったらジュースでも出したりや!部屋持っていこか?」
「い、いらんいらん!取りに行くわ!」
「内海くんごめんねー、ゆっくりしていってねー」
「あ、はい、ありがとうございますー」
嵐のような応酬が終わり、瀬戸が深い息を吐く。そこからしばらく沈黙が続いた。互いにじっと無言で相手を見つめる。やがて瀬戸がおそるおそる、声を潜めながらこう言った。
「……め、目ぇ閉じてくれへん?」
「……また今度にしよか」
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