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譲望(遙か3)

源平争乱のまっただ中に放り出されてから、早くも季節はひと夏を通り過ぎようとしていた。この世界の夜は喧噪など皆無なせいか、田んぼ道に響く鈴虫のリリリという鳴き声が現代よりも鼓膜をしんと震えさせる。隣を歩く先輩は気持ちよさげに「風流だねえ」なんて呟いていた。相変わらず楽天的というか、あるものをあるがままに楽しんでいるというか。けれど、そこが先輩の魅力なんだよな、と改めて感じられる。
夜に朔とふたりで龍神温泉に行く、と先輩が俺に告げたのはちょうど昼時のことだった。夜に女性ふたりで外出だなんて、もし怨霊や暴漢に遭遇したらどうするというのかと跳ねた心臓を鎮めながら諫めれば、私たちけっこう強くなってるし大丈夫だよと快活に笑いながらはねのけられる。先輩は自分の存在や立場、それに俺の心配をまったくわかっていないのだ。様々な想いからの焦燥の果てに、気がつけば俺は「一緒に連れて行ってください」という言葉を口にしていた。うん、もちろん。即座にけろりと紡がれる了承にどこか拍子抜けしながらも、先輩を傍で守ることができる安堵のほうが勝る。その後、夕方頃に朔が申し訳なさそうに「急用ができた」と俺たちに告げに来て、結果的に俺と先輩のふたりで温泉に行くことになってしまった。…「なってしまった」なんて言いながら本当は舞い上がるほど嬉しいのだから、我ながら現金な男だと思う。
帰路を進む湯上がりの先輩はいつにも増して華やいだ雰囲気を纏っていて、歩くたびにさわやかな香りを振りまいていた。それに引っ張られるように先輩の後を歩いていく。上機嫌な彼女は何度もこちらに振り返って、にこりと微笑んでくれた。こんなに幸福感に満ちた時間を過ごすのは、いつぶりだろうか。先輩はいつも兄さんと一緒にいたから、ふたりきりでいたことなんて今まで数えるほどしかない。けれど今、ここには確かに俺と先輩しかおらず、先輩は俺のためだけの笑顔を生み出してくれる。こんな幸せが続くなら、もう一生このまま歩き続けてもかまわない。この静かな夜道を先輩とずっとふたりきりで歩んで、そうしてそのうち世界にまでふたりきりになれたら。…なんて、こんなことを先輩が望んでいるわけがない。それに、兄さんの存在を頭から消しされないあまりに、いま俺は先輩の隣にすら並ぶことができていないのだ。先輩とふたりきりの世界を望めるような立場ではないのに、どうしてこんなに馬鹿馬鹿しいことを考えてしまうのか。


「うわあ、すごい!」


不意に先輩が感嘆の声をあげ、そこで意識が現実に引き戻された。少し前で立ち止まっている先輩は空を見上げて頬を緩ませている。つられて夜空に目を向けると、そこには絵本に出てくるそれのように美しい満月が鎮座していた。現代ではなかなか目にかかることのできない、他の何者にも邪魔をされていないあたたかい光の円だ。


「月、すごく綺麗だね」


先輩はぽろりと、そんな言葉をこぼした。ええ、と返事をしながら、こんなに残酷なこともないなと俺は思う。先輩は優しい。呪文のように、胸中でそう繰り返す。


「死んでもいいくらいですね」
「ええっ、そんなに?」


けっこう感動屋だったんだね、と先輩はくすくすと笑った。宮沢賢治は知っているのに、夏目漱石と二葉亭四迷は知らないんですね。この人は俺の想いを黙殺するのが本当に上手だと思う。それか、やはり気づいていて知らないふりをしているのか。わからないけれど、それでも月はほんとうに綺麗で、俺はもういつだって死んでもよかったのだ。

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