まるい紫は悲しみに暮れているらしかった。すんすんぐすぐす、まるで泣いているかのような擬音がその紫から聴こえてきて、自分の耳を疑いながらその顔を覗きこんでみれば、信じられないことに、いや案の定、そいつは泣いていたのだ。きれいな薄紫を赤に染めて、つり上がっていた眉をめいっぱい下げている。ふんぞり返っているいつものこいつの面影は、この姿には見出せなかった。そんな短いスカートで三角座りなんかしたらパンツ丸見えだよ、なんて言葉も今のこいつにはそよ風程度のものなんだろう。いつもなら辞書投げつけて顔真っ赤にして怒るのにね。
「なんかあったの」
「……」
いちおう訊いてみるも、予想通り返答はなし。まあ人間話したくないことだってあるだろう。僕にだってたくさんあるし、あいつ、岡崎にだって、きっとたくさん。今日あいつ嬉しそうに女子と帰ってたよ、僕になーんも報告しないでさ。なんてことこいつに知らせたらどうなるかな、泣くかな?ああいや、もう泣いてるんだった。ってことはもう知ってるんだね、あいつが女子と帰ったこと。それで泣いてたのか。なるほど合点がいった、と一人で納得してうんうん頷いている僕に、不意にかけられる涙声。
「陽平」
「なに」
「あたしって、バカなのかな」
「なんでさ」
「だって、何年もずっとこんなこと続けてさ。あいつのために泣いても、あいつがこっち向いてくれるわけないのに」
ひどい声だな、どっかの猫型ロボットみたいだ。あとバカだ。かなりのバカだ。僕よりバカだ。もう救いようがないね。おまえが泣いてるのひた隠しにしてるからあいつは気づかないんだよ。何年もそんなこと続けても諦められないくらいあいつのこと好きなんでしょ、じゃあ女の特権駆使して色気でも涙でも使えばいいのに。おまえはいつまで経っても動かないんだ。あ、ねえ杏、ところでさ。
「おまえさ、ボンバヘ好きの金髪野郎って好き?」
「全ッ然タイプじゃない」
「だよねー」
ほら、どこまでいっても一途でさ。やっぱりおまえはバカだね、大バカだね。こんなに素敵な僕に告白されてるのにすっぱり断っちゃうんだから。
「どこへでも連れていってくださいね」
ゆっくりゆっくり、俺に手を引かれながら歩く渚は、5分に一回ぐらいの頻度で思い出したようにそう呟いた。何を思ってそう俺に告げるのかはわからない。渚という女は凡人の俺には理解できない複雑な思考回路を作り出すことがままあって、夫兼渚語翻訳者である俺はいつも手を焼いていた。なんせ早苗さんとおっさんの娘なんだ、一般的な思考は持ち合わせていないということは親子3人揃っているとこを見りゃあすぐわかる。あの古河家独特のテンポは慣れるまでに相当な時間を要するんである。最近はすっかり慣れきってしまっている自分が自分で恐ろしい。でも、あの人たちはどこまでも暖かい。寒さで凍えそうな人には無償でヒーターを譲り渡すような、底抜けの暖かさが俺はなんだかんだ言って好きだった。そんな人たちの娘である渚もやっぱりどこまでも暖かくて、握っている小さな手のひらから与えられる体温には冷たさなんてどこにもない。かけられる言葉さえも、俺の心を包みこむように耳に響いた。言われなくても連れていくさ、どこへでもどこまでも。今俺たちが歩いている近所の夜道から、銀河の果てまでだって。でも、残念ながら俺たちが地球の土を踏みしめている限り、銀河に辿り着くことはない。当たり前のことだ、アホな俺でもさすがにわかる。渚に無数の星を見せてやれないなら、他の場所を探すしかない。いろんな場所を、長い時間をかけて探していくしかない。そんな風に歩いて歩いて、渚が銀河よりも素敵だと言ってくれる場所を一つでも見つけることができたら、俺の人生大勝利だと胸を張って言える。だから、いろんなところに行こう。いろんな物を見よう。ついでに行くとこ全部で嫁さん自慢してやる。どうだ可愛いだろ、俺の嫁さんなんだぞーって。おまえ照れるんだろうなあ。そういう照れてるとこが可愛いから自慢してることに早く気づけよバカ。ああ、そういえば明日は日曜日だ。天気予報では晴れのマークが笑っていた。明日も絶好の散歩日和らしい。
「じゃあ明日もおまえを連れ歩いてやる」
「ふふ、楽しみにしてますね」
いろんなところに連れていってくださいね、と笑う渚は銀河に負けないくらいきれいだった。