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兵部「飯はまだかなあ…」真木「一昨日食べたじゃないですか」兵部「毎日喰わせろ」
「僕のこと、ずっと介護してくれよ」
なあ、と猫なで声で兵部は僕にそう絡んでくる。上気した頬とすこし下がった眉、それとだらしなく緩んだ口はなんだかいつもの兵部よりもすこし雰囲気が違った。どうやら僕に甘えているらしい。僕の膝に頭を乗せてこっちを見上げてくる兵部は、首を撫でればごろごろという音でも聞こえてきそうなものだった。深淵に染められた瞳が、ちいさく熱を持っているのがわかる。いつもにやにやといやらしい笑みを浮かべて僕をからかいにくる兵部よりは今のほうがいいかもしれないけれど、これはこれでひどく調子が狂うなあ、と思った。
「なんだよそれ」
「いやあ、年寄り流のプロポーズってやつ?」
「ぷ、プロポーズって…」
自室の机やパソコンが目の前から消え去ったのは、ほんの1秒ほど前の話だった。パソコン越しに向かい合っていた壁さえ、見えなくなる。その壁の代わりに僕の目に映ったのは、満天の星が散りばめられた夜空だった。もしかしてこれは夢か?だなんていう現実逃避をしそうになるが、エスパー能力に耐性のある僕にはそんなことを思う暇すら与えられない。葵、それか管理官?いや敵エスパーの可能性も――
「正解!」
ぐんっと体が上にあげられる。うわっと声になっているかわからないうめき声をあげ、重力に持ち上げられる体に意識を必死についていかせた。止まった景色の中でぱっと視界に映ったのは、白い髪に代わり映えのしない学生服。確かに、敵エスパーの姿だった。
「兵部!」
「やあ皆本クン。いい夜だね?」
どの口がそう言うか、と叫んだ直後、つままれるように浮いていた体は突然垂直に体勢を立て直される。うわあなんて我ながら間抜けな声を出すと、それを聞いた兵部はいつものようにけらけらと笑ってみせた。相変わらず、腹の立つ奴だ。僕はその非難の感情を隠すことなく思想と視線に込めてじっと兵部を睨む。奴はそれを受けてもむしろより愉快そうににやつくのみで、なんとも見下されている気がしてならないのだった。というか、用件を早く言えよこの馬鹿。僕だってさっきまで仕事中だったんだし、理由なくお前に構っている暇なんてありやしないんだぞ。
「薄情だな、皆本クン」
「…勝手に思考を読むな」
「僕だってまさかただ嫌がらせをするためだけに君を呼ぶはずないだろ?ちゃんとれっきとした、いや、むしろ君にしか頼めないほどの緊急で非常事態な用のために君を呼んだんだよ」
「信じられないんだが」
「…それは」
僕がエスパーだから?と、兵部は言った。ざあっと風が吹き荒れて、兵部の髪がその顔を闇に覆い隠す。たった一言で、今までのどこか陽気な空気が、いっきに覆されたようだった。呼吸もどこか息苦しくなる。もう一度吹いた風によって露わになった兵部のその瞳は、どこか前に見た違和をはらんでいた。極悪組織のボス、指名手配犯には似つかわしくない表情だ。おそろしく儚く、それでいて暴力的な訴えの具現化。しかし手に取るのは僕の自由だと、奴は選択させる。僕は兵部のあの表情がとても苦手だった。だって兵部は、あれでノーマルとエスパーの間に、目に見える線を引いている。それがたとえ奴の思考のみの線引きだとしても、やはり僕には抵抗感が生まれた。すべて否定されているような、そんな気さえしてしまう。だから僕は、ああ、と折れてしまうのだ。我ながら、情けないことは重々承知だが。
「なんだよ、いったい」
「うん、皆本クン。僕は今」
「…ああ」
「暇なんだ」
「…は?」
ほら、非常事態だろ。そう言って兵部は意味もなくくるりと回ってみせる。くるくると踊るように回転を続ける兵部の顔面に、僕は今にも拳を入れたくて仕方がなかった。こいつは僕の神経を逆撫でするのが本当にうまい。あまりの怒りにうち震えていると、兵部はそれとは違う意味で肩を震わせていた。爆笑である。
「いやいや、透視まなくてもわかるよ。そんな理由で呼ぶなよって言いたいんだろ?でも皆本クン、考えてもみてくれよ。僕が暇すぎて世界をめちゃくちゃにしたらどうするんだ?それか薫たちを本格的にパンドラに加入させちゃったらかなりヤバいだろ?君の今の理想のロリコン生活に影が差しちまうんだぜ」
「お前本当人を怒らせるの上手いな!?」
「…おっと手が滑った」
ぐんっとまた体が上に持ち上げられる。はっ、と叫び声かなんなんだかよくわからない声を僕があげるとともに、体は突如真下のビル群に向けて急降下した。強力な重力が身に降りかかって、もはや呼吸すら難しい状態で僕は目を閉じることもできずビルに突っ込んでいく。うわああといういつの間にか口から漏れていた間抜けな叫びは後から体についてきた。いよいよビルに激突するというところで、急に弾丸のようだった我が身が急ブレーキをかける。そして、あと数cmというところでぴたりと体が止まった。はあはあといつの間にか荒くなっていた息をごくりと呑む。遅れて冷や汗は吹き出すし、心臓の異常な鼓動の早さはなかなかおさまらない。深呼吸をして無理矢理気を落ち着かせようとしている間、僕の我ながら今にも死にそうな呼吸と兵部のバカにでかい笑い声がこの異空間を支配していた。
「あーもうダメだ!腹痛い!」
「僕は胃が痛いがな!」
「まあそう怒るなよ」
「これで怒らないやつがいるか普通!」
僕が渾身の力で怒鳴ると、兵部はまだこみ上げるらしい笑いに身を任せながら「いい暇つぶしになった」なんてつぶやいている。なんてやつと知り合ってしまったんだろうかと、僕は心から自分の状況を哀れんだ。残念ながら夜はまだまだ長いし、こいつもまだ僕をいじるのに飽きそうにない。
「お前といると寿命が10年は縮みそうだよ」
「ほう、あと80年ぐらい縮めてやってもいいぜ?」
「80年縮められたら僕もうすぐ死ぬよな!?」
悲しみの渦にいる奴を見るのはやはり気持ちのいいものだったが、今回ばかりはひどく不愉快が募った。薫、とそいつは情けない声を出してかつて愛した女性の変わり果てた姿にすがりついている。僕の愛する女王がこんな姿になってしまっているというこの光景ももちろんひどく耐え難いものであったが、皆本の見るに耐えない狼狽はその悲痛な死の香りに劣れども勝りかけるものだった。ああ、なんて醜くて愚かで汚らわしいのだろう。そんな涙と鼻水まみれの手で僕たちの亡き女王に触れようとするだなんて、正気の沙汰とは思えない。皆本は薄汚れたコートを地面に引きずって、美しい遺体に覆い被さり低い嗚咽を漏らし続ける。コンクリートに無造作に転がるブラスターはもうなんの役目も背負っていない。皆本、と僕はすっかり光をなくした奴に声をかけてみたが、もちろん聞こえるはずはなかった。はずなのだが、皆本はまるで僕に答えるかのようにぼそぼそと誰に向けたわけでもないらしい言葉を垂れ流し始めた。僕が薫を殺したんだ、何よりも大切なあの子の心臓をこの手で止めてしまったんだ。ぶつぶつと、僕を煽っているのかと疑うほどの不快極まりない言葉たちが鼓膜を通り過ぎていく。あの子、だなんてここまで来てまだ宣っているから、こいつはこの予知をくい止めることができなかった。そんなことすらわかっていないらしいこいつに対する苛立ちは底なしに募る。皆本はその後も様々な自らへの呪詛をつぶやいて、けれどすこし、小さな違和を含み始めた。
「けど、これでお前は僕のものだ」
その一言をはっきりと口にした瞬間に、皆本の瞳は完全なる虚無をはらんだ。どす黒い静寂と、狂気さえ共存した感情の誕生。言ってしまえばこの皆本は僕が今まで見てきたこいつの中でもずば抜けて人間らしかった。エスパーだとかノーマルだとかを越えて。それが僕には決定打のように受け入れ難く、いや受け入れるべきではなくて、そして皆本光一という男を忌み嫌うにはじゅうぶんな材料だった。けっきょく奴は最後の最後に、愛する女を独占する欲に勝てない。浅ましく気味の悪い感情に負けて終わるのだ。口先で並べ立てていたきれいごとを自ら灰にする。どうしようもなく腹が立った。女王は僕にとって雲間に差し込んだ光同然で、それがこんな男のちっぽけな独占欲に失われるだなどと、冗談ではない。そして何より不愉快なのが、女王自体がそれを心から望み、受け入れたという事実。そんな状況に陥るまで僕たちの彼女を追い込んだノーマル。やはりノーマルなどに未来なんて任せてはおけない。いつかのあの悲劇が繰り返されて終わるだけなのだ。
僕はもう何度見たかわからないこの予知を見終え、外へと身を向かわせる。肌寒い夜は風を止ませることはない。ノーマルという無力な集団の一人に過ぎないあいつは、いつかエスパーと完全な敵対を為すことだろう。汚い欲を内包しながら、正義を振りかざして戦いつづける。ノーマルとはそんなものだということはこの僕が一番よく理解していた。しかし、なんだか、何かが僕の中をくすぶっている。薫の亡骸にすがりつくあいつを見るとき毎回のように抱く感情、それはまるで絶望のような、失望のような感情なのだ。絶望も失望も僕が抱く価値なんてあいつにはないのに。あいつはしょせん、隊長と同じだ。僕はそれをずっと認識してきたはずで、だからこんなことを感じる必要はない。はずなのに、僕はいったい何を考えているのか。あのバカメガネ、とつぶやいた悪口は宙に消えてゆく。いつの間にか体はすっかり冷えきってしまっていた。全部、皆本のせいだ。
ビルの上を浮遊するのは僕の宿敵とも呼べる人物であり、僕がいまもっとも苦手とする男そのものだった。兵部、と叫べば奴は振り向いて、おそらく僕が浮かべているだろう表情と同じそれをしていた。わざわざ兵部に合わせてビルの屋上にいるせいで、風が強く頬を当たる。あいつの髪もばさばさと風に揺れてずいぶんとうっとうしそうだった。
「なんだよ」
奴はじろりと僕を睨む。ほっとけとでも言いたげなその視線はまるですねた子供のそれで、薫たちと変わりがあるようには思えなかった。80超えのくせに。おおかた予測になかった僕との遭遇で気が立っているのだろう。僕は念のため用意しておいたブラスターに手を添え、兵部の目をじっと見つめる。けれどべつに今日は兵部を捕まえようという気はあまり持っていない。兵部も僕の心を読みとったのかそれがわかったらしく、特に構えようとはしなかった。ふんと鼻を鳴らし、僕をただ見下している。いつもとなんら変わりのない態度だ。少し苛立ちはするが、それでも僕の意思を汲んで手を出してこないあたりは有り難かったし、なんだかネガティブの色には属さない感情さえ覚えてしまった。僕はブラスターから手を離し、拳を握りしめる。兵部は僕から目を逸らさない。
「なあ、兵部」
「なんだよ」
「お前、僕のこと好きか?」
面白いくらい綺麗に兵部の顔が歪んだ。不快の色を隠そうともしていない。はあ?と相手を見下すための声色が空から降ってくる。それを聞いて、もちろん腹も立ったが、それより僕は心底安心してしまった。兵部はそうであらなくてはならないし、僕だって、兵部と同じ気持ちでなくてはならない。そうでないと僕らは互いの立場にいられなくなってしまうし、少なくとも僕があいつを闇から引きずり出せない。だから兵部は、これでいいのだ。ムカつくけど。それが確認できてよかった。
兵部は僕を睨みながら眉間にしわを寄せていたが、不意にふと真顔になり、僕をさっきとは違う感情の籠もった瞳で見つめた。そんな姿を見ていると、なんだか笑みがこぼれ出てしまう。
「僕もお前がめちゃくちゃ嫌いだよ」
「…にやけながら言うことかよ」
気色悪い、と兵部は言ったが、あいつもまんざら不愉快なだけではないらしかった。居心地のいい敵対は長くは続かないし、続けたくもない。ただ、次こそは捕まえるだなんて一言をすこし慈しんでしまいそうな自分は、おそらく自らで認識している以上に危険な不安分子だと思った。