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アス+ラム+ソフィ(TOG)

苦しかったろう、とアスベルは紫を帯びていた自身の片目に指先を伸ばした。しわがれた手は震えながらも目の端を優しくなぞり、その動きに呼応するかのようにアスベルの口元が綻ぶ。すっかり色素の薄れた茶色い髪が、窓から出入りする風に乗じてほんの少し揺れ動いた。枕元に置いてあるクロソフィから花びらが一枚散って、ちょうどアスベルの顔の横にはらりと落ちる。ピンク色のそれを見て、ソフィは先ほどのクロソフィのように一粒の涙を散り落とした。しかし、それは悲しみを帯びているわけでもない。かといって喜びに満ち溢れているわけでもないが。ソフィ自身にも、自らが流した涙に含まれている感情がどんなものなのか、知り得てはいなかった。色で表すならば黄緑色に近いだろうと、彼女はぼんやり思考する。しかしソフィがそういった様々なことを考えている間にも、彼女がさきほどから1秒たりとも目を逸らすことなく見つめている、目前のベッドに横たわる父親代わりの老人は実に幸せそうに微笑んでいた。それだけで、もうじゅうぶんだと、ソフィは心の底から思っている。あなたが最後に、そんな風に笑顔でいられる人生を歩めていたなら、わたしはそれで満足だと。彼女は胸中で全身に染み渡らせるように呟いた。そして、アスベルが最後の瞬間までとある一人このとを忘れていなかったことを知れて、彼女は今とても、幸せを感じていた。アスベルの中に、ラムダと呼ばれた一つの存在が未だ強く根づいていることが、ソフィにはたまらなく嬉しかったのだ。

「楽しい人生だったなあ」

若い頃とは大分変わった声だったが、アスベルは自身のこの声が嫌いではなかった。目尻にできた無数のしわも、しわくちゃな両手も。今自分がこうして持ち合わせている体のすべては、自分がしわがれるほど声を出し、笑い、動き、生きてきた証であると。そう思っているアスベルにとって、今の肉体は自慢だった。どうだ俺はこうして生きてきたぞと、全身で生きた証を証明できるのが嬉しかったのだ。そして、それはただ単に周りの人々だけに証明しているわけではない。自分を、人類を守ってくれたラムダに、俺の人生は幸せでしょうがなかったよと証明をしたかったのだ。ありがとう、楽しかったよ、おまえのおかげだと、ラムダに心から感謝することができる体になったことが、アスベルには途方もない喜びだった。しかし、それを直接ラムダに伝えることは、残念ながら叶わない。だから、彼は娘にバトンを渡すことにした。

「なあ、ソフィ」
「なあに?アスベル」
「あいつ…ラムダが起きたら、伝えてくれないか」

アスベル・ラントの人生は輝かしいものだったと、そしてラムダにたくさんたくさん感謝していたと。アスベルは、迷いなくそう言い放った。

「誰にもわかってもらえてなかったとき、あいつは苦しかったと思うんだ、寂しかったと思うんだ。けっきょくまたあいつを一人にしてしまって、たぶん今も苦しくて寂しい思いをさせてしまってる。だからあいつが帰ってきたときに、おまえが今まで請け負ってくれていた苦しみや寂しさの分、幸せになっていた人がたくさんいたんだぞって言ってやりたいんだ。おまえの苦しみは無駄じゃなかったって、言ってやりたいんだ。でも、俺の口から言うことはできそうにないからな。ソフィ、おまえが言ってやってくれ」

それを言ったあとは、ラムダの頭を撫でてやってくれ。発した言葉は、いつまでもどこまでも優しいものだった。ソフィは目尻に浮かぶ涙を拭い、うん、と力強く返事をする。その答えを聞いて安心したアスベルは、ゆるゆると、しかし確実に、瞼を落とし始めた。娘は、そっと右手を握る。ありがとうと、また一つ。感謝の意を紡いだアスベルの表情は、息を飲むほど安らかだった。クロソフィの花がもう一枚、花びらを枕元に飾った。

「お疲れ様、アスベル」


ソフィは今、産湯に浸かる赤ん坊が愛しくて仕方なかった。何代目になるのかわからなくなるほど受け継がれてきたここラント家で、今の当主と妻の間にめでたく長男が誕生したのだ。命の誕生は何度見ても心が温まると感じているソフィだったが、今回の赤ん坊を一目見たとき、ふと感じた。ああ、この子は、ラムダだと。そう断言できた。数えきれないくらいの歳月を過ごしてきた彼女は、ついにラムダとの対面を果たすことができたのだ。どことなくアスベルに似た現当主が、ソフィにその子の名前を決めてもらいたいんだ、と発する。選択肢は一つしかなかった。ラムダっていうのはどうかな、と答えれば、夫婦は笑顔で頷いた。やっぱりソフィに頼んでよかった、いい名前をもらったな、と夫婦は微笑み、ソフィも静かに表情を綻ばせた。泣きじゃくるラムダが、彼女には宝物のように思えた。

「ねえ、ラムダ。苦しかったでしょう、寂しかったでしょう。いろんなことがあったんでしょう。ほら見て、ここがラントだよ。みんな元気そうに、楽しそうにしてるでしょ。これは全部、あなたのおかげなんだよ。あなたの苦しみは無駄じゃなかった。こうしてちゃんと形になって証明してくれているでしょう?アスベルもね、最後は笑ってたんだよ。楽しい人生だったーって言ってた。こんな人生を過ごせたのは、あなたのおかげだって。ありがとう、本当にありがとう。ラムダ、あなたはたくさん泣いてたくさん笑って、いっぱい体を動かして、いっぱい幸せになってね。わたしたちみんなからのお願いだよ。ありがとう、大好きだよ」

ソフィが優しい手つきでラムダの頭を撫でると、泣きつかれた彼は彼女の腕の中で一時の眠りについた。
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