自室の机やパソコンが目の前から消え去ったのは、ほんの1秒ほど前の話だった。パソコン越しに向かい合っていた壁さえ、見えなくなる。その壁の代わりに僕の目に映ったのは、満天の星が散りばめられた夜空だった。もしかしてこれは夢か?だなんていう現実逃避をしそうになるが、エスパー能力に耐性のある僕にはそんなことを思う暇すら与えられない。葵、それか管理官?いや敵エスパーの可能性も――


「正解!」


ぐんっと体が上にあげられる。うわっと声になっているかわからないうめき声をあげ、重力に持ち上げられる体に意識を必死についていかせた。止まった景色の中でぱっと視界に映ったのは、白い髪に代わり映えのしない学生服。確かに、敵エスパーの姿だった。


「兵部!」
「やあ皆本クン。いい夜だね?」


どの口がそう言うか、と叫んだ直後、つままれるように浮いていた体は突然垂直に体勢を立て直される。うわあなんて我ながら間抜けな声を出すと、それを聞いた兵部はいつものようにけらけらと笑ってみせた。相変わらず、腹の立つ奴だ。僕はその非難の感情を隠すことなく思想と視線に込めてじっと兵部を睨む。奴はそれを受けてもむしろより愉快そうににやつくのみで、なんとも見下されている気がしてならないのだった。というか、用件を早く言えよこの馬鹿。僕だってさっきまで仕事中だったんだし、理由なくお前に構っている暇なんてありやしないんだぞ。


「薄情だな、皆本クン」
「…勝手に思考を読むな」
「僕だってまさかただ嫌がらせをするためだけに君を呼ぶはずないだろ?ちゃんとれっきとした、いや、むしろ君にしか頼めないほどの緊急で非常事態な用のために君を呼んだんだよ」
「信じられないんだが」
「…それは」


僕がエスパーだから?と、兵部は言った。ざあっと風が吹き荒れて、兵部の髪がその顔を闇に覆い隠す。たった一言で、今までのどこか陽気な空気が、いっきに覆されたようだった。呼吸もどこか息苦しくなる。もう一度吹いた風によって露わになった兵部のその瞳は、どこか前に見た違和をはらんでいた。極悪組織のボス、指名手配犯には似つかわしくない表情だ。おそろしく儚く、それでいて暴力的な訴えの具現化。しかし手に取るのは僕の自由だと、奴は選択させる。僕は兵部のあの表情がとても苦手だった。だって兵部は、あれでノーマルとエスパーの間に、目に見える線を引いている。それがたとえ奴の思考のみの線引きだとしても、やはり僕には抵抗感が生まれた。すべて否定されているような、そんな気さえしてしまう。だから僕は、ああ、と折れてしまうのだ。我ながら、情けないことは重々承知だが。


「なんだよ、いったい」
「うん、皆本クン。僕は今」
「…ああ」
「暇なんだ」
「…は?」


ほら、非常事態だろ。そう言って兵部は意味もなくくるりと回ってみせる。くるくると踊るように回転を続ける兵部の顔面に、僕は今にも拳を入れたくて仕方がなかった。こいつは僕の神経を逆撫でするのが本当にうまい。あまりの怒りにうち震えていると、兵部はそれとは違う意味で肩を震わせていた。爆笑である。


「いやいや、透視まなくてもわかるよ。そんな理由で呼ぶなよって言いたいんだろ?でも皆本クン、考えてもみてくれよ。僕が暇すぎて世界をめちゃくちゃにしたらどうするんだ?それか薫たちを本格的にパンドラに加入させちゃったらかなりヤバいだろ?君の今の理想のロリコン生活に影が差しちまうんだぜ」
「お前本当人を怒らせるの上手いな!?」
「…おっと手が滑った」


ぐんっとまた体が上に持ち上げられる。はっ、と叫び声かなんなんだかよくわからない声を僕があげるとともに、体は突如真下のビル群に向けて急降下した。強力な重力が身に降りかかって、もはや呼吸すら難しい状態で僕は目を閉じることもできずビルに突っ込んでいく。うわああといういつの間にか口から漏れていた間抜けな叫びは後から体についてきた。いよいよビルに激突するというところで、急に弾丸のようだった我が身が急ブレーキをかける。そして、あと数cmというところでぴたりと体が止まった。はあはあといつの間にか荒くなっていた息をごくりと呑む。遅れて冷や汗は吹き出すし、心臓の異常な鼓動の早さはなかなかおさまらない。深呼吸をして無理矢理気を落ち着かせようとしている間、僕の我ながら今にも死にそうな呼吸と兵部のバカにでかい笑い声がこの異空間を支配していた。


「あーもうダメだ!腹痛い!」
「僕は胃が痛いがな!」
「まあそう怒るなよ」
「これで怒らないやつがいるか普通!」


僕が渾身の力で怒鳴ると、兵部はまだこみ上げるらしい笑いに身を任せながら「いい暇つぶしになった」なんてつぶやいている。なんてやつと知り合ってしまったんだろうかと、僕は心から自分の状況を哀れんだ。残念ながら夜はまだまだ長いし、こいつもまだ僕をいじるのに飽きそうにない。


「お前といると寿命が10年は縮みそうだよ」
「ほう、あと80年ぐらい縮めてやってもいいぜ?」
「80年縮められたら僕もうすぐ死ぬよな!?」