「きょうね、近所のおばさんにほめられたよ」

ざあざあと、捻った蛇口から溢れ出る水の音にかき消されてしまいそうな声で、菜々子は唐突にそう切り出した。弱酸性が放つライムもどきの香りが鼻をつく。その液体は菜々子が手に持つスポンジを伝って、彼女の小さな手のひらに匂いをつけた。俯く少女の視線は、見かけだけなら量の少ない皿に目が向いているようだが、その瞳にそれらは映っていない。まだまだ小さくて憂いなんて知り得ないであろう彼女は、今確かに、双眸に憂いを帯びさせていた。下を向くまつげがほんの少し震えているのが気がかりで、とりあえず水音の発信源である蛇口を捻って黙らせる。テレビもつけていない居間はそれだけで静寂を生んだ。流し台に積み上げられた皿からいったん視線を外して、『どんなことで褒められたの?』と静寂をぶち破ってみる。菜々子は数回瞬きを繰り返して、ぽつりと言った。

「おかあさんがいないのに、よくがんばってるね、えらいねって、いわれた」

木枯らしが吹き始めたこの頃は、少し肌寒く感じることがある。少し前までは薄着だった俺と菜々子の服も、今では長袖に変わっていた。この家にはヒーターやこたつがないから、すきま風などがたまに身を震わせる。もしかしたら彼女はそれで少し震えていたのかもしれないと考えていたが、どうやら、いややっぱり、違うようだった。

「なんで、おかあさんがいないとがんばってるの?なんで、おかあさんがいないと、えらいの?」

どんな顔をしたらいいのか。転校ばかりの人生である程度の人との付き合い方や対処法は知ってきたはずなのに、目の前にいる小さな女の子にかける言葉は、どうにも見つからなかった。自分の親はいないようなものだと思ってきたが、健康体できちんと生きているという事実は確かにある。だから、親を亡くしたこの子の気持ちを、正確に捉えることができない。しょせんはそれほどの知識しか得ていないのだ、自分は。でも一つわかっていることは、下手な慰めは刃物になって相手に突き刺さるということ。泣いている人に差しだそうとしたハンカチでその人の首を絞めるような真似は避けたかった。特に、この子のことはどうしても傷つけたくない。まだ少しの時間しか過ごしていないけれど、きっと叔父さんには敵わないけれど、俺はこの子のことを大切に思っていた。守ってやりたいのだ、かわいい妹を。

「おかあさんがいないのがえらいことなら、菜々子、えらくなくていいよ」