なんとも清閑な部屋の中に、求人誌をひたすらめくる音だけがただ響いている。時は夜の上を滑り始めてからもう幾ばくかは経ち、日付は軽くまたいでいるだろう。いま家には俺ひとりしかいない。兄さんは今日、飲み会という仕事に駆り出されてしまったのだ。兄さんは飲み会というものはあまり好きではないらしく、けれどとある同僚の人のはからいで強制参加を決められてしまったらしい。おかげで普段たいていのことは涼しい顔をしてこなす兄が、今回ばかりは昨晩から嫌だ嫌だと珍しいくらいに愚痴っていた。だから今夜兄がどんな有様で帰宅するのかが予測できず、少し心配が募る。そのために今まで起きているというわけでもないが、眠気の来ないうちは待ってみてもいいか、と考えていた。それにしても、よく頑張ってるなあ。明日の晩ご飯は何か兄さんの好きなもの、具体的に言うとトマト料理を作ってやらないと。
ガチャン、と扉の開く音がした。兄が長きに渡る飲み会の果てにようやく帰宅という名の栄光を掴んだらしい。時計を見れば、時刻はもう2時へ向かおうとしているところだ。昨日の愚痴に対して充分すぎるほどの働きを見せてきたと思われる。酔っぱらったファンの人たちの相手や大嫌いだと常々ぼやいている同僚の人の絡みには見事耐えられたと見ていいだろう。俺は読んでいた求人誌を机に置き、なんだか賞でも贈ってやりたい気持ちのまま、玄関に目を向けた。ただいまさえ口にせず無表情でその場に立つ兄は、どこからどう見ても疲弊しきっている。すぐさま立ち上がり、急いでそっちに足を向けた。未だ感情を示さない兄さんの前に立ち、その手に持った鞄を渡してもらうために片手を突き出す。
「おかえ、」
そこで同時に兄さんを見上げおかえりと言おうとした、のだが、それを最後まで口にすることは何故か叶わなかった。突き出した手を掴まれ、強い力でぐいと引き寄せられる。その後に少し遅れて、唇に柔らかい感触を感じた。床に鞄がどさりと落ちる音を遠くに聴く。目の前が暗い。両腕を掴む手はすこし熱を持っている。俺にはあまり馴染みのないその出来事に、思考がぴたりと停止した。いったい何が起こったのか頭でも体でもわからない。
「…ただいま」
すこし掠れた、眠そうな兄さんの声が聞こえた。それは一音ずつ俺から離れていき、それに応じて両腕を掴む手がずるずると下に降りていく。それをただの感覚として認識するしかなす術がなかったが、やがて兄さんの重い体が床を振動させながら横たわったことにより、ついに俺は事態を把握し自覚を取り戻した。すやすやという心地よさげな寝息が耳に届けられる。キス魔野郎が熟睡の体制に入られたご様子だった。
「……おい、寝るな!ファーストキス返せ!」