「もしもし」
「あ、兄さん?なんかあった?」
「いや、今日の晩飯は何かなと思ってな」
「今日?今日はトマトオムレツだけど」
「そうか、じゃあ早く帰らなきゃな」
「…それ聞くために電話したの?」
「悪いか?」
「悪くないけど…まあ冷める前には帰って来てくれよ」
「わかった。愛してるぞ」
「トマトをだろ」
「トマトはお前のついでだぞ」
「はいはい、俺も愛してますよ」


今日は朝から女性社員がやけにざわついている気がする。しかも俺を見ながらだ。出社から自分のデスクに座るまでの間、謎の小さい悲鳴を聞いたり声をかけられたり(しかし全員何も言わずすぐに逃げるようにその場を去っていった)、とにかくやたらと気にかけられているらしいことがわかる。俺は何かしてしまったのだろうか?しかし心当たりと言えるものはどう思い起こしても存在しない。昨日まではこんなことはなかったから、何かあったなら昨日の夜から今日の朝までのはずだ。といっても昨日は分史世界を破壊したあと、ルドガーに電話をしてからすぐ家に帰ったし――

「よお、台風の目」

ここで何かまた雑音が聞こえた気がしたが、気のせいだろうとその気配を黙殺した。聞いたことがあるような声だったが、まあ無視してもかまわないだろう。返事をしても不愉快が募るだけだ。考え事を続けていると、不意に背中に不穏なものを感じた。すぐさま右に体を傾け、椅子から立ち上がる。バランスを崩しぐらつくリドウの背後に回り、いつもどおりその背中に馴染みの靴跡型のスタンプを押しつけた。ぐっ、とうめき声をあげてリドウは床にキスをする。ちょうど出勤していたのが俺たちでよかった、と後から周囲を見回して思った。こんな無様な副室長の姿を部下たちに見せるわけにはいかないからな。てめえ、と声を絞り出すリドウから足を離し、立ち上がりかけているその背中に声をかけた。

「台風の目とはどういう意味だ」
「…やっぱり聞こえてんじゃねえか」

ちっ、と舌打ちをしつつ立ち上がって服の埃を払うリドウは、俺を睨みながらつらつらと言葉を並べていく。


「昨日の夜、クランスピア社で誰かと電話してたんだろ?それ、見られてたらしいぜ。で、その内容が明らかに彼女との会話そのものだったとかで女性社員が騒いでるんだよ。まったく、こんなお坊っちゃんなんかのどこがいいんだかなあ?」
「…?」
「しかし驚いたよユリウスくん。まさかお前に彼女がいるなんてな?」


隅におけないねえ、と俺をおもちゃにすることで機嫌を取り戻したらしいリドウがいやらしく笑む。しかし、俺はいまいちリドウの言っていることが理解できない。彼女だとかなんだとか、こいつは何を言っているんだ。もちろん今の俺に彼女なんてものがいるはずはない。だからそんな居もしない存在との会話なんて繰り広げてはいないはずだ。どうにもおかしい、と昨日の夜のことを振り返ってみせる。だがどう思い出しても昨日はルドガーと普通の会話をしたぐらいしか通話の記憶なんてない。


「ああ、もしかしてお前がだっさいダテ眼鏡なんてつけ始めた原因はその女か?ずいぶん長く続いてるんだなあ!10年以上じゃないか」


と、不意にリドウは呆れるほど昔の話を持ち出して俺をからかってきた。そういえばそんな会話を交わしたこともあった。よく覚えているものだと思う。もはや半分こじつけのような悪口に対してこれはお前の考えているような色気のある理由ではないと言ってやりたいところではあるが、そうするにはルドガーの存在をばらさなくてはならないためここはただだんまりを決め込むしかなかった。なぜならこのダテ眼鏡は女なんかのためのものではなくルドガーのためのもので、…と、ここで俺はある事実に思い至った。昨夜俺が電話をした相手は確かにルドガーのみだ。それに間違いはない。それを踏まえたうえで、ルドガーとの会話を思い出してみる。…ああ、なるほど。そりゃあ勘違いもされるわけである。


「…ははは」
「あぁ?なんだ、気色の悪い」
「いや、気にするな」


ふつふつと笑みがこぼれて仕方がない。なるほど、恋人のような会話か。これを我が弟君に聞かせたら果たしてどんな表情になるだろう。眉をしかめて不満を漏らすだろうか、それとも呆れてため息でもこぼすだろうか。はたまた鳥肌を立ててキモいだなんて言うかもしれない。今からその反応が楽しみでしょうがなかった。今日は早く家に帰りたいもんだ。リドウはまたしつこく絡んでくるかと思いきややたら不機嫌な顔をしながら意外にあっさりと引き下がり、俺の顔から笑いが完全に消えるまではからかいには来なかった。俺はしばらくしてデスクに戻り、昨日のトマトオムレツの味を思い浮かべながら一刻も早く仕事を終えようとひっそり決意するのであった。



「ただいま」
「あ、兄さんおかえり」
「ルドガー、昨日の夜にお前に電話しただろう」
「え?ああ、かけてきたよな」
「それが社員の一人に聞かれてたらしいんだがな、その社員、電話の内容を聞いて通話相手を俺の恋人だと思ったらしい」
「…は?」
「ほら、「今日の晩飯は」だとか「愛してる」だとか」
「……ああー……はは」
「ははは」
「ははは……はあ…俺ってなんなんだ…」
「おお、そのパターンか」
「は?」
「いや、こっちの話だ」