ユキハル未完(つり球)

「死んじゃおっか」

よく考えたら俺は社会からのはずれもの。いちばん愛される予定だった父親と母親にまで捨てられたかわいくもなんともないただ二酸化炭素を吐くだけの人間なんだ。地平線をぴんと張り詰めたまま静止する夜の海が怖い。今ここに飛びこんだら泳げない俺は絶対に死ぬよ。足にばかみたいな重さの鉛をつけて生きているせいで、どうしても海でだって浮けない。でも海は好きだよ。だからこそ海が好きなのかな。

「死ぬのこわい」

すっごくこわいんだよ。ずっと俺の手をにぎりしめていたハルが言った。怖いかな。そう口にして笑いかけるとハルも穏やかに微笑む。

「僕ね、大気圏で燃えかけたときとブラックホールに吸いこまれそうになったときすーっごいこわかった」
「そんなことあったんだ」
「宇宙人、大変。宇宙すっごーい!けどキケーン!」
「そりゃ、危ないよなあ」

なんてったって宇宙なんだから。まだ人間が完全に解明できてない、未知の期待と未知の恐怖が果てもなく広がる場所だもの。いろんなこわさが、そりゃああるよ。そんなところを日常的に遊泳するハルは、もしかしたらすっごく、すごいのかもしれない。

ユキハル未完(つり球)

「もし僕が死んじゃったらどうする?」

驚いたことがふたつあった。ひとつめは、ハルがそんな仮定論を持ち出してきたこと。もし〜ならなんて、そんなifの話をするようなやつではなかったはずだ、俺の友達は。もし、だなんてことを思い起こす脳がこいつに存在していただなんて考えもしていなかった。だからとても驚く。そしてふたつめは、ハルが死ぬ、ということ。僕が死んじゃったら、とハルは言った。言ったが、俺はその言葉の意味がまるっきり理解できない。だってハルは、俺の友達だろ?友達は友達の前から消えたりしないだろう。そうだ、宇宙人のハルが俺の手元から離れていってしまうのは必然的であるし仕方のないことだと諦めがつく、納得もできる。でも宇宙人とかそういうすべてを全部ひっくるめて今はただの友達である俺の中のハルは、ほぼ、いやきっと、確実に、絶対に、俺の傍から離れていくことなんてないだろう。死ぬ、という離別の仕方なんて念頭にも置けない、論外の話だ。ハルは絶対に死なないのだ。俺の友達でいる限り、死ぬことなんてない。友達とはそういうことなんだ。死ぬだなんていうもしもを話すのはなんとも馬鹿らしい。

「なに心配してんだよ、大丈夫だって」

だっておまえ、死なないじゃん。そう言ってハルの背をさすると、ハルはぴたりと動きを止めて俺をじっと見つめた。深海みたいな目だった。海の深くで死にかけている魚のような瞳がやけに俺の心を曇らせる。

ユキ夏未完(つり球)

なつき、って余裕なく漏らされる吐息に似た囁きは、着実に俺の思考回路をぐちゃぐちゃと混線させていく。触れてくる手はどこまでも炎みたいに熱くて、燃えてしまうんじゃないかなんていうばかな錯覚まで起こし始めた。もうなんだかへんに胸がいっぱいで、いっぱいいっぱいで、うまく言葉を見つけることができない。じっと俺を捕らえて離さない瞳が確かな情を孕んでいることだとか、そのすこし強張った表情が決意していることの意味だとか、いまここには、ユキの家には誰もひとがいないことだとか。そういうものばかりが頭を掠め、なんだか妙に照れくさく、ユキの顔を見るだけでわりと精一杯な自分がひどく格好悪く思えた。ふとユキが何かを言おうとして、しかし戸惑うように口ごもったかと思えばすこし視線を泳がせる。やがてかちりとまた俺の網膜を燃やして、熱に浮かされたまま紡いだ。

「夏樹、いい?」

ユキハル未完(つり球)

水族館という世界に触れるとき、魚が可哀想だという場にそぐわない感性を思考がからめ取るときがある。きれいな魚たちは回ったり跳んだりしてたくさんの生を俺たちに魅せるけれど、その生の範囲って人間によって限界まで狭められている。見せ物みたいに展示されて、ぶつかりかけながら箱のような庭を遊泳してさ。あのガラスの中から見たこちら側は彼らの目にどう映っているんだろう。そう俺は考えてしまうけれど、あいつらってなかなかどうして楽しそうに定められた世界を回っているときがある。可哀想だなんて大層な戯れ言を振りかざした俺にとって、それは不思議の対象だったのだ。なあ、おまえらってどうしてそんなに自由なふりが得意なんだよ。
そんな思想に溺れ尽くしていたとき、ハルは唐突に壮絶に俺のもとへやってきた。宇宙なんていう大海原に身を置いていたのに、自ら水槽に飛びこんできたっていうのだから驚きを覚える。それにはまあわりと深刻な事情があったわけだけれど、しかしながらあいつはこの空間をめいっぱい楽しみまくっていた。

ユキハル未完(つり球)

「僕、きっとユキより早く」
「ハル」
「きっとずっと早くにね、死ぬと思う」
「…やめろよ」
「…死んじゃうよ、ユキのこと置いてく」

それでもユキは僕と一緒にいるの、僕は嫌だよとハルは俺に言葉を遮られようと気丈に続けた。それを受けて俺は、ああやっぱり、ハルが好きだなと思った。器用なんかじゃないくせに俺にうそをつくことをハルはいつだってやめようとしない。初めて大嫌いだって言われた日のことを思い出す。ハルのうそは決まって俺の胸を抉り、しかし俺を守ろうと必死なのだ。
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