探偵と怪盗設定
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「例えばここがパラレルワールドのひとつだったとしてさ」
ビルの屋上のぎりぎり端、あと一歩でも後ずされば地上へと落ちていきそうな場所で王馬くんは煤のように黒いマントを夜闇にはためかせていた。同じく黒くて上等そうな帽子を浅くかぶる出で立ちはいっそわざとらしいほどに悪役然としている。彼の突拍子もない言葉に、僕は慣れていないわけではなかった。探偵として短くない時間を怪盗である彼に費やしてきたからだ。彼は僕をからかっているかのように、時にヒントすら与えながらその尻尾をぎりぎりのところでこの手に掴ませないでいる。何度も騙され出し抜かれた苦い経験は簡単には拭い去れない。こんなところまで追い詰めることができたのなんて、もしかすると今日が初めてではないだろうか?
「おーい。ちゃんと聞いてる?聞いてくれないと飛び降りちゃうよ」
王馬くんはぎらぎらと眩しいビル群にその身を投じるふりをして、ほんのすこしだけ場から後ずさった。死なれては困る、と思った僕は慌てて「聞いてるよ」と返事をする。すると王馬くんは満足そうに口端を歪めるのだ。どうせ嘘だとわかっているくせに、とても満足そうに。警戒心を最大まで引き上げながらも、動きを止めた彼にいったん安堵する。
「で、例えばここがパラレルワールドだったとしたら。つまりオレと最原ちゃんが怪盗と探偵だっていうこの世界がもしただの可能性の一部だったとしたら、他の世界にいるオレたちはどういう関係になってるんだろうね。他の世界でもオレたちはこんな風においかけっこなんてしてるのかな?」
「……どうして急にそんなことを?」
「さあ、なんでだろうね。どうしてオレはこんなことを言うんだと思う?最原ちゃんが意味を作ってよ」
まるで理屈が分からなくて、僕はじっとその謎に目を凝らす。王馬くんの姿は夜の中で白くぼんやりと浮き上がっていて、違和感をそのまま存在にしたかのような佇まいだった。何も言葉が出ない僕に、彼は仕方がないとでも言いたげにわざとらしく眉を下げる。
「じゃあ具体例を出してあげるよ。……そうだなあ、例えば別の世界でオレと最原ちゃんは同じ学校の生徒で、クラスメートだったとしようか。たぶんオレは今みたいに最原ちゃんをからかって遊ぶし、最原ちゃんはきっとオレが鬱陶しくてうんざりしてる。ここまではオレらの今の関係と変わらないよね。でも、そこには決定的に足りないものがある」
「足りないもの?」
王馬くんは笑って、その場でくるりと一回転してみせた。心臓が底冷えして思わず短く声をあげる。しかし僕の心配などよそに彼は何事もなくきちんと着地して、一歩を踏み出しかけた僕のほうを見て「にしし」と嘲笑のような笑みを漏らした。分かりやすすぎるほどに振り回されている、そんな現状に少し苛立ちが込み上げてくる。
「理由だよ。最原ちゃんがオレを追いかける理由が足りないんだよ!オレと最原ちゃんがもし今の関係じゃなかったら、オレたちはこんな風に何度も会ったり言葉を交わすこともきっとないんだよ。オレはさ、最原ちゃんのことが好きだから、最原ちゃんに追いかけてもらいたいんだよね。だから今の関係はまさにオレの理想なんだよ。最原ちゃんも、オレを追いかけるのは楽しいでしょ?」
「それは」
違う、と言ってしまうのは簡単だった。怪盗として警察も民間人も困らせている(面白がっている民間人も一部にはいるらしいが)王馬くんを一刻も早く捕まえるべきというのは被害者の人たちの総意だし、僕だって出来るだけ早く彼を捕まえてこんな精神的にも体力的にも疲弊しきる仕事は片付けてしてしまいたかった。はっきり言うと、楽しいなんてことは微塵もない。けれどこのところいつも王馬くんのことを考えさせられているせいで、果たして彼を捕まえたあと僕は何のことを考えて生きていくのだろうかと、ふとしたときに思ってしまう。毒されているというのは自分でも自覚しているし、きっとこれは王馬くんの狙い通りだ。彼の手の中で踊らされているという事実に嫌気が差す。
「ねえ最原ちゃん。せっかくオレらはこんな形で出会えたのに、オレを捕まえたら全部が終わりになっちゃうよ。本当にここで終わらせちゃっていいのかな?」
「いいに決まってるだろ」
「つまらない嘘つかないでよ」
突風が吹いて、王馬くんの帽子が風に奪われ夜景の中へと放たれた。それなのに彼はそれを気にも留めずにじっと僕から視線を外さない。その癖のある髪がどれだけ風に乱されようと、真実でも確かめるかのようにしっかりと僕を見ていた。きっとこれも嘘だ。彼は逃げたいがためだけに僕に長々とこんな話をしている。けれど僕だってもう彼を逃がすわけにはいかないのだ。やっと今日、探偵と怪盗としての僕らを終わらせられるかもしれないのだから。
「王馬くん、それは違うよ」
「うわ、またお得意の論破?」
「……キミは理由がないって言ったけど、そんなのは嘘だよね?きっとキミは理由なんていくらでも作ってみせるし、どんな世界でも僕にキミを追わせようとするだろ。今の僕らは確かに存在自体が理由そのもので、キミにとっては理想の関係なんだと思う。でもたとえ僕が探偵じゃない場合でもキミが怪盗じゃない場合でも、きっとキミは僕を悩ませつづけるよね。どんな状況であろうと、出会ってしまった時点でそれは確定しているはずだ」
「それはそうかもね。最原ちゃん的には、出会っちゃったらそこでゲームオーバーって感じだよね!」
「そうだよ。だからそれはつまり、これ以上の終わりはないってことと同義なんだよ。僕がここでキミを捕まえて僕らが探偵と怪盗じゃなくなったとしても、キミが別のものになって僕を悩ませることだってできる。キミが望む限り僕らがずっと終わらないことは可能だよ。でも、王馬くん、僕の今の仕事はキミとのこの関係を終わらせることだ。だから今の僕は探偵として、この僕とキミとの理由を潰す」
渾身の力を持って王馬くんを睨みつける。彼はしばらくじっと、観察でもするように僕を見つめて、やがてとても嬉しそうな笑顔を見せた。その表情の真意が掴めないでいたとき、近くの方からバラバラバラ、と騒がしい音が聞こえてくる。それはどんどん近くなり、ついには小型のヘリコプターが間近に姿を現した。強い風を腕で防いでいる間にヘリコプターから簡易のはしごが投げられて、王馬くんは慣れた手つきでそれに掴まる。この期に及んでまだ逃げる気なのだ。待て、と僕が叫ぶと、王馬くんは僕に振り返ってこう叫び返してきた。
「ごめんね!オレ、まだこのまま最原ちゃんと遊びたいんだ」
こっちに向かって軽快に手を振ると、ヘリコプターに乗り込んで扉を閉める。追いかける手段はもうなかった。騒がしく去っていくヘリを為すすべもなく見つめつづけながら、頭と体が疲れ果てているのをじくじくと実感する。何が遊びたいだ、こっちは仕事でしていることなのに。そう思いながら大きな嘆息を吐き、いつの間にか入っていた肩の力をすっと抜いた。次に会うときこそ捕まえてしまわなければもう僕の身がもたない。彼の嘘に対抗するための嘘を考えながら、去っていく騒音の余韻を振りきって家路を急いだ。