出合い はなしあうなら



昨晩の「リンダリンダ」と「青空」の映像を見ていて、おもったことがあります。
客席で熱狂していた人達は、私と年齢が近めの人達である。「青空」の映像のヒトコマなんかは、もしかしたらNHKホールでのライブだったかもしれませんが、私はそこに観に行っていたのです。下駄を履いていったら「アブナイから」という理由でスリッパに履き替えさせられ、テンションが下がりましたが(笑)。

あの頃のみんな、今、どうしてんのかな。っておもいました。あのときたしかに私達は、同じ何かを共有していた。そしてそれはけっして、「あの時代の流行」ではなかったのです。

だって今ブルーハーツ観ても、聴いても、「なつかしい〜」とは思わないですもの。生々しく熱いです。あんときゃ若かったな〜とか青かったな〜とかいう想いが、一ミリも無いとはさすがにいいませんが、昔のアルバムやビデオを久しぶりに眺めたときのような感じでは全然ありません。


♪愛じゃなくても 恋じゃなくても 君を離しはしない


愛に1980年代の愛も何もありゃせんでしょう。

中心道が、フツーのトレーニングとは異彩を放っている理由。それは、その鍛えているチカラは、時間の中のものではないからである。








もしも僕がいつか君と


TBSで、懐かしの名曲を特集してました。チャンネルつけたらかかっていたのは


♪こんな夜に お前に乗れないなんて こんな夜にハッシャできないなんて
(RCサクセション、雨上がりの夜空に)


マジでカッコいい。マジでカッコいい。清志郎マジでカッコいい!私はチャンネルロックで居間に居座ることにしました。

♪ランラランランランランランラー
(THEブーム、島唄)


♪最後のキスは煙草のフレーバーがなんちゃらかんちゃら
(宇多田ヒカル、ファーストラブ)


♪明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
(BUMP OF CHICKEN、天体観測)


♪一番星に祈る それが私のくせになり
(夏川りみ、涙そうそう)

私がこの世で一番「憧れる」「カッコいい」「羨ましい」人達は、ミュージシャンだ。二番目は、合気の達人だ。 三番目は、俺自身だ。


♪ドブネズミみたいに 美しくなりたい

キター!(・∀・) それも映像は日比谷野音のやつだ!あの頃の血の気がよみがえる。クソッタレが。ぶっ殺してやる。誰を?何もかもだ!

と、発狂する手前で、なぜかこの唄は超ショートカットで終わってしまい、直後に流れましたのは、

♪女々しくて女々しくて女々しくて つらいよー

(ゴールデンボンバー)


…ワシは、ゴールデンボンバー、キライじゃない、好きだ。でもなぁ、間が悪すぎるじゃろがよ。かなりイラッとしたっぺよ。ギャル男こら、どけや。

なんておもってるうちに、あっというまに番組が終わっていった

♪女神なんてなれないまま私は生きる
(高橋洋子、残酷な天使のテーゼ)

♪今日の風に吹かれましょう
(中島みゆき、時代)


私がこの世で一番「素敵」「エロイ」と思う人達は、ミュージシャンだ。二番目は、熟女だ。三番目俺で四番目オダギリジョー。逆か。


次回予定
「真性器エヴァンゲリヲン」






ふるスペック


加齢と体質によりカサカサな肌+痩せている+非社会的オーラにより、貧相オリンピック代表に選ばれてもおかしくない私ですが、それらとはチグハグに姿勢だけはよい(笑)。身体能力(スポーツ能力ではない)においては過去最高を更新するばかりだし。 ただし、生きていくためのモチベーションはあまり無い(笑)。


34才(15、6年前)の時点で私の身体には、肥田式的な中心ケイ道は、ほぼ全くと言っていいほど、通ってはいなかった。だが、あの頃とは氣の出しかたはだいぶちがう。ケイ道がちがう。


氣と中心(真氣)の違いを、詳細に解説することは未だよく出来ないが、その問題と関連している「自我」についての話を、すこししてみる。
自我はアカンもの、無くすべきものとする修行などは「過程としては」存在する。氣と自我はいささか相性が悪いからである。だが、中心氣が確立されるとき、はたして自我はアリかナシか?などという観念など、どうでもいいことである。


生死も同じ。生きるべきか死ぬべきかなどという観念などは、存在の焦点ではない。









夏を告げる雨が降って 僕は部屋で独りぼっち



眠ってんだか起きてんだかわかんないときに、「ふるふる」っていう言葉が浮かんでました。


「ワクワク」がバシャール、「ゆるゆる」が高岡英夫さんのキーワードなら、そうだ、シンタイコウは「ふるふる」でいこう(笑)
もともと「ちぶる整体」の「ぶる」って、そういうニュアンスを込めていたんですけどね。宣伝チラシには気功療法のことを「氣振り」「氣明け」と記していましたっけね、そういえば。

そして前々記事で書いた聖十字操練のアレンジは「臥禅」と名付けようか。
臥禅がね、思いの外スゲーいいんですよ。立禅や座禅や筋トレと比べてはるかに時短で済み、なおかつキョーレツな作用がある。文で説明して運動の仕方がわかる人はあまりいないだろうから、ユーチューバーになるなりワークショップでも開くなりすりゃいいのですが。

で、この臥禅動作をキメたあと、そのまま休養姿勢でいると、直ちに自然に背骨がクネクネのたうちます。自分がミミズもしくはアオダイショウにでもなったような、いや、根源生命体に還ったかのようなカンジになります。「THEリビドー」というかんじになります。

合気道は「動く禅」といわれますが、寝る禅、振る禅はシンタイコウだ。真氣動じゃ。

野口整体の「活元」とも似ているものとおもわれますが、ならばこれは「還元」といえる。

古神道の「鎮魂帰神の術」ってどんなものなのかよく知りませんが、これはチンコ鬼芯、もとい「振魂氣真の術」といえる。


次回予定
「ふるスペック」
「真性器エヴァンゲリヲン」






外は春の雨が降って 僕は部屋で独りぼっち



♪安っぽいメッキなら すぐに剥がれてしまう
カラッポの言葉なら
もう僕は聞き飽きた

(THEブルーハーツ、ハンマー)



大きめの木槌が家にあったので、それを持っていろいろな動作を試してみました。

何気なしに振り回していて、野球のマスコットバット(素振り練習のための重いやつ)とか、バットにはめる鉄輪を思い出しました。子供の頃あれは腕力を鍛えるためのものだと思っていましたが、こうしたグッズは実はスワイショウのサポートグッズとして有効ですね。


片手で持ち、肩甲骨からグルグル振り回して、体をほぐす。頭上から振り下ろす。下腹の高さあたりにある物を叩く寸前で止める。肚にチカラがこもる。 剣術や剣道をやってる人の、重い木刀を片手で素振する練習と似ているような気がする。 ビタッと止めるチカラは腕の力ではない。
そして止めずに振り抜くのは尚更に腕のチカラではない。薪割りは腕力や体重を使わずとも出来ることと同じ。指圧では腕力や体重を使わないことと、同じ。

こうした動作能力を、バランス力+それでもやっぱりある程度の筋力、とかいうふうに判断する人は結構多いかもしれない。すべては沢山あるに越したことはないという発想もあるかもしれない。たしかに競技や職業の種類によって、必要なオプションはいろいろあるとおもう。

けれども、シンタイコウは、足し算のソロバンは弾かない。

引いて引いて引きまくったあげく、一体何があるのかという、発見につぐ発見の作業である。


足りない自分を満たすための鍛練など、しない。


♪48億の
個人的な憂鬱
地球がその重みに
耐えかねて軋んでる

(THEブルーハーツ、ハンマー)








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