氣功脳

発達障害と言われる人の原因は、教育や怠惰の問題なのではなく、脳機能の障害だということらしいです。それはそうだとして、その脳を障害と名付けるのはいかがか。「今の社会にとっては」という前置きをつけなければフェアではないと思います。


私は「そういった資質の脳」の人でも、頭部の氣道を通し開くことで、障害というラベルとは違った側面をあらわすことができるとわかってきました。
その脳は、その人そのものはそのままでかまわないのです。というかそれは誰にも変えられないのです。


ナンチャラ症の類いもそうです。
さらにはたとえばポジティブシンキングなどはエクササイズではなく機能の問題であると言えます。つまり脳を騙すとか鍛えるということではないのです。脳で脳をナニカするのではないのです!

当たり前ですが氣脈は頭部にも通っています。
脳の認識とボディのエネルギーがチグハグにならないようにするには、真氣が貫かなければなりません。

禅や肥田式で、真っ直ぐ脊柱を立てる(正解にいえば脊柱には生理的カーブがあるから、真っ直ぐ立てるのは脊柱ではなく中芯空軸である)といっているのは、それが全身全霊のポジティブフル稼働を発揮せしむるシンプルなワザであるからです。


キラーメソッド

瞑想行とかだと、スピリチャルの沼に落っこちてしまいがちだけれども、肥田春充(肥田式強健術)がどこまでも健全なのは、筋トレが原点だったからだとおもう。筋トレを否定する私でもそれは肯定的にみる。

肥田強健術には気功的な指図は無いが、肥田さんは氣を氣として頓着していなかったのかもしれない。氣が無かったわけではないだろ。

ことさら気功をしていない人にだって氣の走行や氣の走行の乱れはあるのである。そうじゃなかったら気功施術は気功をしている人にしか効かないものになる。だが現実はそんなことない。


筋トレだろうがオシャレヨガだろうが、極みへと向かう人は向かうんだと思う。禅だろうがスピリチャルだろうが、脱線する人は脱線するんだと思う。
ミもフタもない言い方だが、その人の資質ですべては決まっているとおもう。
才能ではない。資質です。


下丹田と正中心のちがい

下丹田と正中心の違いを私の所見で述べるならば、正中心は下丹田よりもさらに物質的ではないということ。

腰腹間の一点とやらにあるのは、転換の扉のようなものである。そこは出入口である。下丹田を養成することもまずは大事ではあろうけれど、下丹田は有限のチカラ、正中心は無限のチカラである。諸君、私はべつに都市伝説的な話をしてはいないのだ。わからなければわからなくてかまわない。上等です。人によっては有害な話にもなり得るので即刻立ち去ってくれたまへ。


丹田には重心を落とせるけれど、正中心には落とせない。重心が居座る場所(次元)ではないからである。
正確にいうなら正中心という場所など無いのである。


足腰にすらもたれかからず(姿勢)、頭や胸で思い煩わず(瞳孔のフゲイ、観念の不要)。電磁力か何かで宙に浮く地球儀を見たことがありますが、正中心肚はそれに似ている。肥田春充にもし伺いをたてることができて、「キミィ!何を言っておるのだ、バカモノめ!」という返答があったならば、訂正する。「真中芯体はそれに似ている」と(笑)。
渚カヲルはセントラルドグマでそうやって宙に浮いていたのである。諸君、エヴァなめんなよ。




リュウモンジ アゲイン

退行催眠的な?ものを、ウトウトしたときに自分自身にかけてみた。
隠れた暗黒のトラウマみたいなもんがあるならばいっちょう見てみようぢゃないかと。

したらば出てきたものは、ひたすらケタケタケタケタ笑う無条件に理由なき喜びだか嬉し嬉しだかオールイエスだかオールハッピーだかの、無邪気極まりない子供のようなエネルギーに圧倒されて呑み込まれてしまった。 なんだこれ??


暗い気分になったり暗いニュースを見たときに、ばくだんいわ になって彗星のように地球に突撃してすべてを滅ぼしたくなるときの、暗黒の衝動の根っこにでも行き当たるのかなと思っていたのに、そんなものは微塵もなかったぞ… 笑

子供の頃の記憶とか潜在意識とかいうのとも違っていたとおもう。なんかもう個人的なものではなかった。


そうそう、中芯空軸で立てるようになればなるほど、「勝手に直立してる」感は強くなるわけですが、それはどこか妙な「思い出した感」も伴います。その身体内の空は、不可逆に進んでいってしまう3次元的な時空ではないわけですよ。 つまりは、3次元構造だけで構築する姿勢ではないのです、これは。どう考えて(感じて)も。


と、結局またこうやってこんな文字達を並べるんだけれどもね…




さる

今朝の新聞の文化欄に、作家の今野敏さんのデビュー40周年の記事がありました。今は警察小説で有名みたいですが、私がよく読んでいた20代の頃は武術小説が多かった。
そのなかで好きだったのは「孤拳伝」という中国武術版あしたのジョーみたいな物語。

氣とかケイとか自分ではまだ何の実感も無かった頃なのに、突きを打つ描写になぜかリアリティを感じながら読んでいました。今読んだらどんな印象を受けるのだろう。

…この新聞紙、読み終わったら今野さんへの感謝のキモチを込めて、真体拳 で突き破ろうか(笑)。余談ですが、新聞紙を打ち抜くとき、形意拳的な姿勢で打つより、肥田式的な姿勢で打つ方が、すがすがしい(個人的感想)。


記事ではこんなコメントがありました
著作が100冊を超えた頃から、「結末まで決めないと不安で書き始められなかったのが、結末まで決めずに書いた方が面白いと思えるようになったんです」

まったくだ。全部そういうこった。全部な。



それからもうひとつ大ニュースがあった。生産終了してしまっていたホンダのモンキーが、125CC で復活するらしい!
ヤッター!これは欲しい!!




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