ニンニンニンごと。

愛さん 再びコメントありがとうございます。


頂いたコメントや前記事に引き続いた話を書こう。

私のような民間療法師は、病名を告げることはいけなかったり、「治った」「治した」と宣伝することも問題になってしまいす。
でもそれでいいと思ったりもします。法的な理屈の話はさておき、「治る」ってそもそも何のこと?と、哲学的な問題を切り離した作業はできないものだから。

客に対して哲学を要求するわけでは勿論ありませんが、私が何もしてあげられない例を申し上げますと、

「痛みの深い原因やトータルバランスなどどうでもいい、痛みを確実に消してもらうことだけに金を払う。その他の問答無用。」とか「カリスマ的なウルトラパワーで勝手に何とかしてくれるならお任せしたい。」 的なケースです。ですから、

その人の身心が「良くなろうとするチカラ」を微かにあるいは確かに発しているのを感じとれなかった時、私は、施術を御断りする場合もありましょう。


「治す」ってことを行ってるわけじゃねえんだよなあって考えると、整体、とかヒーリングって名前すら何だか足枷だし、辛気くさい。大体ね、ベッドに寝てもらって手を当ててることだけが、出来る仕事の全てではない。

ヒーリングじゃねーな、チブリングじゃな。



ニンニンゴト。

愛知の愛さん、コメントをありがとうございます。



…さて。宇宙の愛さんよ、願わくば私に、全宇宙が爆笑するようなギャグを、どうかこの身につけさせたもれい!

はみちーん、サーサーサーサーサー…

いいえ、これではありません。

はみちーん、スマッスマッスマッスマッ…

ノー。違います。

はみちー…わかりました。もう結構です。


皆さん薄々御気づきかと思いますが、私は双極性障害もしくは統合失調症もしくは解離性障害もしくは分裂…てゆうか、なんやねん、このテの名称。こんな名称自体が統合失調症やないか。オイ。コラ。ドクター。ペッパー。


うつ、パニック障害も含め、こうした病名を付けられて、少し安心して症状が緩和する方と、余計悪化する方がいるかと思いますが、悪化する方は、クスリで治していくやり方は、あんまり向いてないのではないかと思います。

しかし私はドクターではないので、あんまりこういうことを書き連ねるのは控えざるをえません。

しかししかしの話ですが。氣功は万能ではありませんけれども、病名がハッキリしない、原因が医学の診断では特定できない痛み、悩みに効果を発揮するということがあります。

しかししかししかしの話ですが。何だかんだ言っても氣功って、辛気くさいとかウソくさいとか、オカルトイメージが拭いきれませんよね。


ですので、「はみちん功」って名前に変えたろうか。宇宙の愛さん、如何でしょう。余計マズイっすか。悪くないけどなぁ。はみちんだもの。

フタリゴト。

相変わらず愛知県からの来客率が高い。ナゼだ。 ナゼなんだ、愛知の愛さんよ。



「シェアする」という言い方がありますね。物のシェアに限らず、キモチ的なことの交流や共有においても。

そもそものもともとは、シェアしようとしようがしまいが、ほっといたって世界はシェアで出来ているとおもうのですが。
だのに私達は、ことごとく面倒臭いことをします。
獲得競争に励みつつシェアと言い、地球に優しくといい、キズナといい、ナンバーワンじゃなくていいオンリーワンだといってナンバーワンに憧れます。


シェアは人が意図しようがしまいが命の営みとして自然に、勝手におこなわれている現象でありましょう?。それは氣功そのものの姿です。氣功ヒーリングを施すうえでも、私がすることは、「タクトを振る」的なことであり、シェア自体は、ほぼ自動的におこなわれます。
心や考えや技術は、ノイズ、オカズ、みたいなものです。



ヒトリゴト。

相当めんどくせえこと書きますから、安易に見るのはお控えなすることをオススメします笑




完全なサレンダー。完全な委ね。


何を完全に委ねるのか?
何に完全に委ねるのか?

サクッと言ってしまうなら、自分を神、愛、宇宙に委ねるということになるでしょうが、これらの言葉の意味のとりかたは、分裂してしまっています。

イメージの中で、どんなに言葉を置き換えても同じ。イメージの中では、自分だと思っている何かを神だと思っている何かに委ねているような何かをしているに過ぎません。それは究極の話でも何でもない。

イメージそのものを、丸ごと、サレンダー。

…何に?(笑)

こうしてイメージはどこまでもイメージを創造するのである。福岡さんの発した一言は、イメージで語る人のイメージの話ではないのでしょうね。



ココロがはじまるまえのトコロ

一番最初の記事を読み返しました。あの時よりは文章作りに慣れてきたので、あらためてあの時から今までそしてこれからも発信するであろうただひとつのことを、書き直してみます。


心、身、どちらの病みでも痛みでも、それを抱えて訪れた人を観たときに、その「異常」であることの「正常さ」が観えることはよくあります。正常に異常さを出しているんです。

でね、皆さんの本当の姿は、光です。光の玉です。正常に異常さが出ている人ほど、本当の姿からの力が強い場合があります。良くなる可能性がうごめいています。

でね。逆に。「異常に」正常を装おう、というケースもあるのですが、これはこれで、このように誰もが陥りやすいです。誰だって異常になりたくないからね。

心のチカラというのは、どっちにも使えます、転びます。心は強いし弱いし優しいし痛いし温かく冷たく豊かで儚い。でも、皆さんは、心ではありません。光です。

ポジティブな心が言っているのではありません。私の心というフィルターが外れたら、ヒトが光ってみえたのさ。


良きかな。
よかったなあ。


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