シンタク

頭のド真ん中の目覚め、それが、ウ中心。

胸のド真ん中の開放、それがシン中心。

肚のド真ん中の覚悟、それがセイ中心。

全部そろってム中心(たぶん笑)。


ではそうするにはどうすればいいのか?←この質問を するのは誰なのか、何なのか、フーアー。
この問の質量ではどうにもならないのです。この問には答えがない。この問のエネルギーは真空には存在しない。


ウ中心でそうと知り、 シン中心でそうとなり、セイ中心でそうとあるしかないのだ!


ム中心でこれらのゴタクは吹き飛ばされる(たぶん笑)。





本当は脱力するつもりなんてないなら抜力で満足しとけばいい

あの、まず、一応念のためおことわりしておきますが、普通に健康とか幸せになりたい人は、この記事もブログも読まないでください。
そういうノウハウは全く書かれていません。



東洋的メソッドをするなら力が抜けていなければ力を出す喜びも味わえないですけれども、身心の健康を目的として適度な抜力、適度な態度で行えばそこそこ目的は達成できる。じつに健全であります。

が、極意とか究極を求めるとかしちゃうと、非常に厄介なことになる。本人は超本気でも、いや本気だと余計にアブナイ。90年代に暴走したカルト宗教の信者達は本気だったのだ。

脱力とは。

哲学者ニーチェの本を読んだことはないが、ニーチェは発狂したという話は聞いている。ニーチェの本をさらっと解釈して人生訓のように利用も出来るのかもしれんけれど、ニーチェ本人は発狂している。推測ですが、ニーチェは真理を垣間見た。だが、脱ニーチェを拒んだ。しがみついた哲学頭が真理に破壊された。

気功で逆に身心をブッ壊すパターンと同じです。 抜力→エネルギーがますます通ってゆく→がどんどん進む、どこまでも。本気ですから。やがてパンドラの箱にぶち当たります。単純に言ってリキミの根っこです。

光が闇を通すとき、闇は消えますが、光は通したいが闇は闇のままありたいという欲求は通用しますでしょうか。

小周天のオーバーフローとか、大周天じゃなくて幽体離脱しちゃうとか、中心力モドキが身体にダメージを喰らわすとか、自然を制圧しようとして自然に牙を剥かれる的なことは起こりうるのです。

気功等はロクでもないものだと言いたいのではありません。氣や自然や宇宙に罪はない。罪がないのだから罰なんてのも、もともとない。

ですからほんとうに天真爛漫純真無垢、ならばこのようなことにはあまりならないとおもいます。私はグヂャグヂャですのでチトヤヴァイけど。


マジヤバワーク、真体功。笑





思ひ出

今でもあるのだろうか。 世田谷の住宅街的な通りに、唯我独尊大胆不敵奇妙奇天裂といったテイの黄色い建物が立っておった。

近未来風のビルヂングであったが入り口は日本家屋風で、引戸だった。なのに横に引いても開かない。引いてもダメなら開けてみる、と開いた。引戸デザインのドアでありやがった。

薄暗いスペースにポツネンと装置がおわす。ボタンがいくつもある。ボタンには文字がある。青、龍、門 の順序で三つ押すとやおらウィーンと扉が開いた。

扉の向こうは相変わらず薄暗い。鉄骨の階段をガシンガシンと降りる。いつの時代のものかよくわからないパチンコ台が横にズラァァ〜ーって並んでる。

なにやら下方にはテーブルが点在してる、人がちらほら座ってる。「 ブレードランナー」的な風景を想像されたし。

私も席に座った。人が近づいてきた。レプリカントではないよな、この人… 私は人にヒトコト言ってみた

「ランチ。」


カシコマリマシタの数分後、テーブルに届いたチンジャオロース、ゴハン、スープ、あと何か。ふーむ。いい匂いだ。が、圧倒的に異様な空間の雰囲気によって、まだ目の前のモノが果たして食物なのか疑わしいが… おそるおそる口に入れてみた。

うう、 うんめぇ〜!

油よし肉よし竹ピーマン共にサクッシャリッ、ゴハンホクホクホックホク。その他全部うまし。お水も。

コケオドシなだけの店ではない中華飯店、青龍門。感動しつつトイレに行ったらオドロいた。
なんじゃこりゃ! 小便止まるら! ケタケタケタ。

夢でも見ていたのかなってくらいに、非現実的な記憶を残してくれた店。今でもあるのかな。ないのかな。ネット検索などしない。こういうことは検索なんてしないほうがいいんだ。


次回予定「中心は、中心からしか体験できないのだ!」
「われおもう。マジチンポ。」





マッハ式 逆強健術

上肚を思いきりヘコます運動が生じた。
真向法の第二体操(前屈)をやったあとに。

肥田式とは正反対の姿勢と呼吸である。そして、 「これが肚だ」というタイトル記事でも書いたことだが、この運動をしたあとは、上肚主導(逆三角)の肚がよく活きる。仙骨がコンパスの針のように地面を突き刺してとらえるような感覚である。不動というわけではなく、重心を変えるなら機敏にその一点を移動させる。このとき腰は第二体操のように丸めるのが条件というわけではなく、反りもするし丸めもするし、360度自在である!

身体全体にしても機敏感が強い。素早く強くどうとでも動けるかのようである。足で床板を踏み抜くというのは、もしかしてこの上肚主導の力なんじゃねえのかとすらおもえてくる。試してないけど…

そしてさらに思う。肥田式簡易強健術というのは、下肚主導(順三角)の肚の鍛練形式だ。まさに肚を確り作るといった感が強い。そして確り作られた肚で各筋肉を作るといった体操だ。「礎体操」だ。

相撲に例えてみよう。肥田式簡易術的な下肚鍛練は「四股踏み」である。真体功的上肚鍛練は「テッポウ」である。

で、肥田式上体の型は下肚優位鍛練であるが、下体の型は、なんと、上下肚同時同量の爆発的鍛練である!!型のシルエットからしても、まったくそれがあらわれているとおもう。


これは現時点での私の体察であるとおことわりしておきます。


次回予定 「胸」


れい

私は霊能者ではないので確たることは言えないが、あのテの世界のカラクリは、おそらくおよそこういうことである

人は何らかの想念が起こる。想念はエネルギーである。想念エネルギーは同調する。拡張したり変異したり活動する。守護霊だの悪霊だの前世だのは、漂う想念エネルギーの擬人化である。
90年代のブーム時に織田信長だのマリーアントワネットだのジャンヌダルクだのが前世だと思っている人が複数いたりしたのは、象徴的エネルギーの人気者だからである。大抵は非業の死を遂げた人物とか振り幅の大きな人生を送った(と語り継がれる)人物が選ばれるのはエネルギーがわかりやすいからである。


自分でエネルギーを感じるのは勝手だし、霊能者が感じるのも勝手だが、実際は守護も過去も誰かもへったくれもなく、要するに「今漂っている想念エネルギーの説明」なのである。

そういうことだから、想念エネルギーに振り回されている場合を「憑依」とか「悪いカルマ」「闇の宇宙人」といい、調子よいなら「守護」とか「徳」「光の戦士」という。

人は想念を発しつづけるので、大きくくくりゃあ誰でも憑依されっぱなしである。そこで人はできることなら良い霊に憑依してもらおうと、いろいろやる。


それらのことをボディワークでいうならば、「上体の右往左往」 である。下らんことダメなことと言いたいのではありません、ハートは同調するのが仕事だし、閉じたままではそれこそ幽霊になってしまいます。

しかし、想念は自己でしょうか?これはボディワークとハートのスピリチュアルワークの違いの核心問題です。


次回予定「胸」


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