弓とシンタイコウ




足を開いて姿勢をビッときめる。

そして、ふと、真横(左)を向いたのです。

すると、(あ、これはきっと弓道の姿勢と同じなんだろうな)とかんじました。これに腕の動きを加えればいいだけだと。

弦を引き絞る腕は、所詮いわゆる部分力であり、姿勢(体幹)のほうが主体だ。肩甲骨まわりや上腕&前腕の筋肉と、弦の張りは、姿勢からのチカラが作用する結果だ。腕力ではない。


さてしかし、矢を的に命中させるという行為が弓道であるからには、姿勢力の結果をソレで示さなければならない。
実際に弓道を体験して確認すれば話は早いのですが、さしあたり想像で言わせていただくならば、的を狙う意識には、きっと、落とし穴がある。

首がコンマ一ミリ前にズレるか、氣の体軸がブレるのだ。当てようとする『エゴ』によって。

『的に当たるまでの』姿勢を極めきる前に矢を放つのは、ときにたまたま命中しようが、それは単なる当てずっぽうだ。
『当たってからでないかぎり』、矢を放してはならないとおもう。

でも、姿勢を極めないかぎり矢を放つことを禁じる稽古法の弓道場があっても、おそらく生徒は一人も集まらないだろう(笑)。



次回予定
『シンタイの中におわします、天津神と国津神』
乞御期待。



パラタイムシフト




私は35年ほど前に高校を一年で中退しましたが、そこは特殊な専科のクラスで、コンピュータープログラミングの授業がありました。ゲーム制作とかしてました。35年前ですよ! すごいですね。なのに今の私はパソコンやスマホの使い方がわかりません(笑)。Wi-Fiって何ですか。USBって何のことでしょうか。



また、私はバイクやクルマの運転が上手いわけでなく、むしろ下手なほうです。だのに何故オートマが嫌いかというと、マニュアル車のシフトチェンジのときのタイムラグが好きだからです。レースとかならそんなもん無駄な時間でしかないのでしょうが、私はクラッチを切ってる時間がやたら長いです(笑)。ですからスポーティなミッションよりも、トラックとかカブとかのようなのじゃないと、これまた楽しめません。

30代のころ、よく、人に『喋るのがチョー遅い』と言われてました。高倉健の数倍もの『間』がありすぎるというのです(笑)。イライラされることもありました。
また、20代のころ、役者の仕事で、ベテラン役者さんとカラんだとき、『何かせえ!』『おまえ芝居しろや!』と言われました。間を埋めてナンボの演技をする人だったので、私は何もしない大根におもわれました。よってまるっきり芝居が噛み合いませんでした(笑)。

ゲームプログラミングの授業でなんとなく覚えていることがあります。『if』というワードをなにかと打ち込んでいたことです。『もしもこういうときはこうなる』というプログラムをひたすら入力していたのかな。

私は、脳に『if』をできるだけ詰め込むことが、ヒトの能力を高めること(ヒトのシアワセに比例すること)だとは思えません。というか、たとえ100000000個のifを得ても、中心姿勢には辿り着かないのである。順番が逆だ。










ハラダイムシフト




シンタイコウのベースとなっている、肥田式強健術(中心錬修会の)と出会えてよかったなあとおもうのは、肥田式はやっぱし日本的な芸、術、道の極意であり基礎だからだ。私は柳生心眼流柔術とか30年前にかじってたっきりだけど、ハッキリいって上達しているとおもう。全然やっていないのに。今いきなりやっても 当時とは比べ物にならない強さの当て身とか蹴りができると断言できる。


シンタイコウ式強健術の型式がまた少し変わりました。中身が変わったからです。
正座をしていたら、仙腸関節が微細なバイブレーションを発しているのが感じられ、その振動に従った運動をあらわした結果である。もっと詳細な解説をするなら、中丹田とかイシキとか重心とかのいろいろがなんやかんやあるのですが、文章ではなかなか説明しきらん。てゆうかあんまり文章にしたくない


仙腸関節は、誰一人として同じ形をしていないらしいですけど、中心力を拓くその鍵と鍵穴から起こる振動も、振動から生じる運動の型式(結晶)も、唯一無二のものであって然りではないでしょうか。





次回予定
『八極拳化しつつあるチャラ手、スーパーバックベンド、1インチパンチ、グレイス柔術体操とかをYouTubeで披露する計画』











以前から私は型稽古みたいなのは好きではありませんでした。だが単純な反復運動が根っから嫌いというわけでもなく、黙々と同じことをやりつづけることだってよくある。

自主的であるかないかで180度気分が変わるのです。
教科書とか義務みたいにルールを示されても、気分はたちまちしおれた花のようになるし、漠然と『気合いだ気合いだ!』とか煽られても、ただ怒りが込み上げてくる(笑)。また自主的といっても、大脳新皮質から指令するばかりの運動は、やり続けられません。


自らの主は自らに命令を下さない


さて昨夜は入眠するまえの瞑想的状態でなんやかんやあって、夢に入ってその続きがなんやかんやあって、起きて、今、今までより尚更に、『型』を失ったようで。


肥田式の型、とか正座の型、とかいうんでなく、存在の仕型があやふやなのである(もともとあやふやではありましたが笑)。

台本も衣裳もないのになぜかすでに舞台にいる役者とか、メニューもレシピも無いレストランの厨房に立つシェフとか、楽譜もなく調律もしていない楽器でいきなり演奏しなければならない音楽家のような気分。
しかし不安でなく瑞々しい気分。

芝居も調理も演奏も、まるでできなくなってしまうわけでなくむしろ、ほんとうに自 主 的におこなわれる。








追記




前回、シンタイコキュウは量子転換がどーのこーの、といった説明文を書きましたが、科学的な言葉を使って雰囲気だけ漂わすような説明で、だまくらかしてはいかんとおもい(笑)、量子についてきっちり知ろうと、調べました。

が、
よくわかりませんでした((T_T))


ただし、少しだけ知ったこととしては、量子力学は、ニュートン力学や電磁力学の常識は通用しないということです。

そこでまた私のお得意の、雰囲気的感覚的なことを言わせていただくならば、中心力は、一般物理学では完全には説明できひんだろうということです。以前、このブログで、中心力は引力というふうに書きましたが、もう少し具体的にいうなら、中心力は量子と引力のコラボだ(たぶん(笑))。

しかしともかくじっさいに中心力を体現するには、量子レベルの運動をしないかぎりは、たんなる一般物理学的な運動にとどまるということです。
量子レベル運動は単純ではあれ簡単ではないからこそ、たとえば柔道は階級制で『柔よく剛を制す』も半ば絵空事になっているのではないでしょうか。
合気の達人は滅多に存在しないのではないでしょうか。
一見あんなに単純な肥田式強健術の動作も、一般物理学レベルでは同等風味な動作ができたとしても、量子レベルでは何もできていないのが、我々の凡庸な運動センスだとおもわれます。
量子運動ができないかぎりは、合気はサブミッションとしか捉えられないし、肥田式は肉体運動として行わざるをえない。鈍くて遅い、後の祭りをするしかないのである(笑)

しかしながら、量子これそのものは、頭の良さあるいは運動センスの良さとかで製造するものではないのである。誰もがすでに量子なのだ。そして誰もが引力と全く無関係にここに居るわけじゃない。


肉体力感なんて全然感じていないのに強い力を出しているときや、人に触れているだけ或いは掌をかざしているだけで人の体が治癒しているとき、『時間』や『因果』というものは非常に曖昧です。そのときいちいちこうした理屈など考えてはいない。


ここのところ、やたらと、夢見で得たヒントが実際のシンタイコウに確実な変化をもたらしているのですが、夢の中でしっかり、わりと鮮明な体感や知覚があるわけです。 とはいえそれは、肉体の感覚ではない。肉体感覚では曖昧で鈍い部分を、夢見でとらえているのである。それが、目覚めて起きてからシンタイ感覚としてリアルに活かされるのである。
睡眠中のほうが、量子レベル運動をしやすいのかな。


そして私はここ10年ほど、ずっと、ある重要な勘違いをしていたことも判明した。
しかし、この勘違いという感覚がまた勘違いっぽい。
量子に勘違いなどという質の動きはないだろう。







前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2020年10月 >>
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
アーカイブ
カテゴリー