「思い」は胸〜頭に生じていますね。愉快な思いは愉快ですね!
愉快な思いが不快に変わるとき、それは、愉快に執着してるとき。そりゃ誰だって愉快は手放したくないですもの、執着するキモチはフツーに起こる。
でもなぜか、「愉快溜め」は出来ない。無理矢理溜めると、何が起こるでしょう。心身が何らかの形 で不調になる。もしくは知らず知らず他人の愉快を奪い取るやりかたに出ます。
かといって不快も貯蓄する必要ないですし、
…ではどうしたらよいのでしょう←はい、これは何でしょう?愉快をキープする方法を捨てきれない「思い」です(笑)
という具合に、頭や胸のチカラを使うと堂々巡り、やがて愉快も不快に腐敗するさね、というわけで、頭で頭をどうにかするのをやめて、足の声を訊いてみましょう。
正座してる場合は尾骨、立ったときは足の裏に。
歩くときは足よりも下に。
最初は何も聞こえないかもしれません。が、よく聴いていれば、何かを言ってます。よくよく聴いてみると、結構面白いことを言っています。調子に乗らせれば、爆笑するようなことを言うかもしれねえよ! わからんけど。とりあえず聴くだけ聴いてみちゃいなよ。あばよ。
創生水という水をご存知ですか。
創生ワールドという会社の浄水器で、単純に言うなら水道水を超軟水に変えた水なんですが。
20年近く前にその存在を知った時、試しに取り寄せて飲んでビックリ掃除に使ってビックリ、しばらく定期的に配達してもらっていました。水本来の能力ってこんなに強力で万能でピュアなものなんだねと、感動しました。
しかしすっかり忘れていたその水の事をふと思い出し、検索したところ、やはり今時ですから、ホームページがありました。浄水器の詳しい仕組みも解説されていました。
その仕組みを明確には理解出来ないながらも、ふむふむ…と読んでいると…何だか、体術のヒントが書かれているように読めるではありませんか。
創生水を飲用、利用すれば身体にも地球にもいい事づくめなのは明らかです、が、私は、浄水器と人の身体術とを重ね合わせて観るうちに、その浄水器のごとき身体に、その水のごときモノでありたいと、手前味噌ならぬ手前水な解釈をするのでありました。
思い出した。
昨日の記事では、太極拳と肥田式強健術の相違点について言及しようとしたのですが、言葉で表すのが難しいこと書こうとしてんなあと思いながら見切り発車させましたら、グダグダに終わりました…すんません
氣を養う、培う作業と、氣を発する作業は少し異なるのですが、どっちこっち、固まった心身は、ほどかれます。
ですが、氣を発する作業はどちらかといえば爆発的な作業ですので、心身のコリカタマリを強制的に吹き飛ばすようなことになります。
ということはつまり、穏やかに氣を育成するよりも、リスクがあるとも言えます。易々とは外れない心身の執着と氣のチカラとの矛盾、抵抗が生じて、ダメージを受けるのです。
穏やかに育成する場合は、ダメージは受けにくい反面、心身(の執着)から軸足を離さないままになりがちになる為、なかなか進歩成長しないとか、あるところから停滞したまま先に進まないことが起こり得ます。
ここで注意しておきたいのは、心身と氣は敵対関係ではないということです。心身の否定=氣の充実ということではありません。
心身や念が氣を育んだり発したりはしないということです。逆です。もともと氣があるから、心身がある。
ですから氣の育成というのは、もっと適切に言うなら、「氣の発見」「氣の観察」です。
そして「心身の再発見、観察」です。
氣を発するということは、「矛盾の発見」「矛盾の観察」でもあります。
しかし矛盾の発見観察が目的そのものではありません。
氣を発するということは、氣を発するということです。
…ほいでね、続きなんだけど…
今回のタイトルで何が書きたかったのか…全然思い出せない!わからんのです!
記憶が99%ないンティナイン。
…そもそも何でブログとかやってんだっけ?。
まさにノーフューチャーな脳フューチャーってことになってはいるよね?、ではこれでいいのだ!ろうか。。
う〜ん オシマイ
太極拳はやはり、「氣の理」にかなった優れた氣育です。でもいきなり精妙なことを四の五のいわず求めず、健康体操のテイストを打ち出すことによって、広まっています。
ヨガの大ブームも、クンダリニーだの何だのは置いといて、「イケてるストレッチ」って風味が入口になったのが大きいと思います。
科学、医学も、日常に有用な技術や知識を目の前にぶら下げてもらわないと、専門家でない我々は食い付きません。
神社仏閣も、恋愛健康商売繁盛諸々の開運の効能?を謳わないと、「わぁスゴ〜い、ここ、パワーが出てるよね〜」と言ってもらえず御守りも買ってくれないと思います(笑)。
つづく