寝入りばな や 寝起きしな は天然の瞑想タイムであり、とりたてて瞑想修行などしていなくたって、誰でもそのときある程度の瞑想状態が訪れる。ただ多くの人はそのゴールデンタイムを単に漫然と、まどろんで終わる。

瞑想状態のとき、「これが自分」と思い込んでいるものと、そうではないものが分離する。自分だと常におもっているもの(アイデンティティ、過去から続く記憶、欲求、願望、苦しみ、などなど全部含めた、ザッツ私)が、他人事にかんじる。すべては茶番といいますか、ほんとうは実体のない幻やねんかと、かんじてくる。

そこでふと、ではそういうふうに知覚しているそれは何なのか?それは「私」ではないのか?ということにもなる。

がそこで、また、私私 と、私エネルギーを使うと、私 が介入して、瞑想は終わる。

終わらなければ魔境に突入します。 神を見る、悪魔を見る、それらが何かを告げる、お花畑を見る、地獄を見る、あるいはとてつもないヒラメキとか、予知とか、なんでもアリです。禅はその境地を全否定するみたいですが、古神道的には魔境では審神(サニワ)することを重要視しているのではないのかな。

魔境は否定すべきか肯定すべきかはさておき、ハマる奴はハマってしまうし抜ける奴はどっちこっち抜けるんじゃないのかな、とおもう。魔境にすら入れない人は現実という幻想でのみ生きる。それが良いか悪いかもさておき、そこを脱するかどうかも、その人次第なんじゃないか。他人や修行法がどうにかしてくれたり、どうにかするものではないとおもう。


幻想にも魔境にも満足できないのなら、個の「私」を観ているソレをもまた、観るのである。


さて総じて、瞑想を妨害したり魔境でややこしいことになったりするたった1つの原因があるようにおもいます。それは、封印した感情です。ハートです。これを封じたまま進んでも、ツケが回ってくるのである。
でもこんなもん修行でもなんでもなくて、生きてる誰にでも言えることです。ハートを封じた仕事、ハートを封じたコミュニケーション。全部ツケか回ってくるよ。