今朝 、夢のグレイス柔術を参考にした動作をしたところ、いつにも増して下肢を貫通するチカラがズーン!ときて、こりゃまたずいぶんクリアで強いシンタイ化したなと、
イイ気分を味わったのも束の間で、ほどなくして、どんどん腰が痛重苦しくなっていった。
好転反応的な症状であるのは十分に承知できるので、心配なキモチとかはまったく起こらないのですが、やたら重いです。
でこの痛重苦しさを味わっていると、なんだか私はエヴァンゲリオンのことが脳裡に浮かびます。
『今度こそ君を幸せにするよ』
(渚カヲル)
エヴァQの渚カヲルなんてもうほとんどロボットアニメの敵のテイではなくなっていますが、他のシトだって使徒だよね。一回一回、シンジ(人類)を覚醒に導くレッスンをしているというか、ケガレを落とさしているというか、、いろいろやってくれちゃってるようにも観えるじゃんね。
庵野監督は、大ブームのとき、エヴァ解釈本が沢山出版されていることについては『興味ねっす』といい放ち、素っ気なかったみたいですが、こっちはこっちでそんな回答なんてどうでもいいんだよ(笑)。
さしあたって私は今回のシトを、コシラエルと命名する(笑)。
大本教の信者であったという芥川龍之介の代表作『蜘蛛の糸』。
子供の頃は、『自分さえよければいいという心があるかぎり地獄行きになりますよ』という、道徳的な話なのだとおもっていた。
しかし成人になって、(アレってホントは何がいいたいのかな?)と、ふとしたときに思うことが、たびたびありました。 芥川が大本の信者だったということを知ったことも影響しているとおもう。だったらたんなるイイ子ちゃんなメッセージなんて発信しねえだろ?と(笑)。
最高にいい現実とか、ボディワークだったら最高にイイ体感とか、瞑想でいうなら至高体験とか、何やらどこかイイところ(現実社会の地位でも、五次元世界でも、至高の境地でも)へ達しようとするのって、蜘蛛の糸を探したり垂れてきた蜘蛛の糸をつかんでのぼろうとすることと、ヘタすりゃ同じことをしがちになるとおもいます。
でも、足を引っ張るのは誰あろう、他人ではないとおもいます。自分自身である。修行不足な自分とかじゃない。『リアルな自分』である。
ほんとうの自分(という名の実はエゴが妄想する究極にイケてる自分)を求めて浄化とか修行とかして、蜘蛛の糸をつかむ(つまり覚醒とか大金とかツインソウルとかアルファードとか聖中心とか量子脳とかを得ようとする)けれども、どこかへいこうとするその足は、リアルな自分につかまれるのである(笑)(笑)。
とはいえ、地獄だか日常だかで苦しみを味わい続けるのがリアルな自分、ほんとうの自分、ということでもないのである。それもまた全然ちがうのです。平凡な場所で平凡に暮らすことが一番の幸せとかいう話ともまたまったくちがいます。
蜘蛛は糸を自身の内から出し、張り、編む。
定規で測らずとも描いたその曼陀羅の真ん中で、ふだんは、じっとしている。
次回予告
『真体離脱と真体離脱アフター、涅槃と涅槃からの此れ』
『ワタシという名の神という名の磁力という名のナニカシラ』
『逆流方向にスイスイ泳ぐ魚とヨットと重力を使った体術』』
昨年の今頃、静岡よりHさんが此方へきたとき、調子に乗って自分の太ももに自分の鉄槌モドキをドスドス落としてみせていたら、肉離れになってしまいしばらく大変だったことを思い出しました(笑)
さきほど、同じ動作を十分加減してトストスやっていて、ふとおもった。腕をほとんど重力まかせに落とすだけで、このときワシは腰とか姿勢とか意識してないが、はて?どうしてるんじゃろ?と。とくにどうもしてない(笑)のですが。
引力重力のことを、おぼつかない知識で認めてはいるが、斥力という言葉を書いた記憶がない。だから少し書く。
引力に対する反発力とか拮抗力みたいなのが斥力。それは引力に抵抗する力ではなくて、陰陽的である。
脱力出力(中心力)の、脱力感は引力。出力感は斥力。
姿勢角度が悪かったり、どこかしらリキミのある強健術を、『ヘタに上手く』ガツンとやれてしまった場合、逆に体にダメージを与えてしまうのが斥力。
『腰腹同量の力』とは1足す1で2の力、ではありません。斥力が十分に発生するチカラである。『0マイナスプラス1』的な力である。
テレビで、筋肉先生が、『やるか、もっとやるかだ』みたいな名言を吐いていました。筋トレは抵抗力を培うものなので、ひたすらやらんといかんのでしょう。
だがシンタイコウは『やられるか、もっとやられるか』だ(笑)。抵抗していたら斥力は発生しない。
中心を鍛え、中心力で部分を鍛え、部分力を強くし、、 ていう強健術のイメージカラーは、男性的な方向からの芳香をぷんぷんさせています。
『強健術』という名からしても、伝説の肥田春充のキャラからしても。抜刀術とか気合応用術とか見ても。
しかし私は、強健術がベースとなっている姿勢をじっさいにしていておもうのです、、 そんなんじゃなくね?そんなんじゃないんだね、、と。
腰腹同量の姿勢は、陰陽同量の姿勢である。
加速度落下にしても気合にしても、男性的攻撃性で行うようにはおもえないし、シンタイコウの1インチパンチワークにしても、見た目には破壊行為のようですが、やってる本人は、格闘技的攻撃的な気分ではおこなっていません。
前回書いた、脳波のモトイシキも、全然攻撃的ではないし、ビンゴ波も、攻めの気分が生じるわけではない。『ゼロ』である。そこからやや、ほんの少し上がった波長で、はじめてアクティブになるのである。
中心を鍛え…というけど、下丹田中心力の本質は『受容』だとおもう。すなわち下丹田中心力とは受け入れる力とか何もしない定力とかのことである。 全肯定のチカラである。そこから、やや上の肚(シンタイコウでいうシン中心)にアクティブさが生まれる。
『もう、いいのね』
(碇ユイ)
昨晩は、ここしばらく恒例の、『文章を詠んでいる夢』を見ていましたが、詠んでいるあいだに、睡眠から目覚めへとすんなり移行していました。つまり、睡眠と目覚めの境界がありませんでした。
文章を詠んでいるワタシは、私が眠っていようが目覚めようが変わらず、引続き、文章を詠みつづけているのです。
ではこの意識はナニ意識というのか、、などとラベル貼りをしようとしても大して何の足しにもならないんだけど、ちょっと『脳波』について知りたくなり、シータ波の具体的な数字とかを調べたりしちゃいました。
以前から知っていたこととしては、深い瞑想意識や、何かの達人の脳波は、7,8ヘルツが出ていて、それは地球のシューマン共振(地表の定在波)と同じ、ってことだったのですが、ちなみにここ数年、地球のシューマン共振は7,8ヘルツを安定して出さなくなってきているらしいです。電磁波文明の影響なのか、たまたまなのかは知らない。だがそれは、多発する災害とか人のウツ症とかに関係してるとおもう。
さて7,8ヘルツかどうかはわからないけど、シンタイにとって、ビンゴ!的な周波数はある。充足感っていうか透徹感を伴う。
が、変な瞑想とか催眠とかクスリとかで、そのヘルツをなんぼ発生させても、表面をなぞるようなことしかできないとおもいます。一時的なイイ気分を味わうだけです。ヘタすりゃ悪い気分にもなることでしょう。
その周波数を発生させているモトは、その周波数だけを発生させるわけではない。それでいてビンゴ波はある。姿勢にビンゴがあるのと同じようなもんです。
眠っていようが覚めていようが覚めているイシキってのは、どんな脳波でいようが、その波のモトなので、波には呑まれない。潜在意識よりもモトのイシキであり無意識のように無でもない。
身体の中心力が部分力より弱いということがあり得ないのと同じようなもんだ。