すわる。ねる。たつ。




太極拳やヨガにくらべると、強健術の動作は直線的に見えます。でも、その直線は、自我がひいたセンではない。


私は、動かない正坐であっても、微妙に身体を『練って』います。練らないと『結果』真っ直ぐにならないからです。
練って練って練り込みます。

『結果の直線』でなく『肉体を真っ直ぐにさせた』ことによって生じた硬直疲労が残った場合、前屈運動で補正します。前屈は正座と対照的な動作です。
ちなみに神社参拝の作法に『二礼二拍手一礼』がありますが、礼は前屈動作、 拍手は覚醒を促す動作だとおもいます。
お天道様を拝むとき、私ははじめに礼をするのですが、そこで背中のこわばりを捨て、背中で日を浴びます。それから正面を正体させます。


練るとは、毎日の積み重ねというよりも、溶かす行為です。どろどろに溶かす。蓮は泥から立ち上がり花が咲くみたいですが、それもまた『結果』でしょう。
前回の記事では、ジブンジシンがなんちゃらかんちゃらといった文を書きました。が、自我とジブンジシンは違います。自我を鼓舞させるための記事ではありません。正坐もまた、自我を強化させるための身体づくりではない。







サードアイ、トゥルーハート、エアベリー。





下丹田を鍛えることは身体的で、上丹田を鍛えることは頭脳的だとするなら、中丹田を鍛えることはナニ的なことでしょうか。

宗教的信仰でしょうか。

肥田春充の強健術のやり方については、そのスジの人々なら、いろいろと研究や実践をしているとおもう。食事にせよ運動にせよ。けれど、肥田式を究めたいがためにクリスチャンにまでなる超本格派?な人って、いるのかな。

ハラを鍛えて強くなろうとしたり、アタマを磨いて良くなろうとしたりするうえでは、いろんなメソッドがある。そして宗教(あるいはスピリチャール)はハートのメソッドといえる。
ですが、肚も、直観も、シンコウシンも、『其れそのもの』は、外側の情報にあるのではない。

また、肚を鍛えようとしたとき、それまで鍛えてきた腹筋がその邪魔をしたり、直観を研くとき、それまで貯えてきた知識がその邪魔をしたり、シンコウシンに殉ずるとき、それまで携えてきた不シンカンがそれを妨げます。
『其れそのもの』とは、身に付けていたソレでもない。



イエスの言い伝えに『私を信じる者は天国に行く』とかなんとかいうのがあります。でも牧師や聖書はイエスその人ではありません。
ナニ教を信じるべきかとかいうのは問題の核心ではない。
本当に強いのは肥田式か極真かシステマか合気かなんて、ほんとはどうでもいいことでしょう? 本当のことを言っているのはイエスかブッダか天理か大本かなんて、わからない奴がいくら調べたってわからないだろ。

すぐれたメソッド、すぐれたグルとは、ジブンジシンに還らせるのが上手な方法であり先生のことである。しかしながら、ジブンジシンへの還り方が本当に一番上手いのはジブンジシンである。というかジブンジシンにしかジブンジシンには還れないのである。
他人が正中心を決めてくれんもんな。
他人が直観を教えてくれるんか。くれんやろが。
あ、でも真心は他人から受けとることがありますね(笑)。








絶対的カクシンが生まれるシセイ。





ついさっき、居間のテレビで、『女性には出来て男性には出来ない運動』とかいうのが紹介されてました。
四つん這いから頬杖をつき、そこから手を腰にやり、手の支えを外しても胴体をそのままキープするという運動。 すると大抵の男性は前屈みの姿勢をキープできずつんのめってしまう、が、女性は出来る人がいるという。しかしスタジオでは誰も出来ず、収拾がつかなくなっていた。
そこでなんとなく真似してみたワタクシ。なんとなく出来た(笑)。皆で何を騒いでいるのかわからないくらいアッサリと。
上半身の筋力が弱い女性のほうがバランスがとりやすいのだとか解説されていた。また、男女での重心の違いの図が示されてた。四つん這いのとき、男は重心が腹の一点にあり、女は腰の一点にあると。 女性の図の重心の一点は仙骨あたりであった。

バックベンド運動でも言えることですが、性別や筋力(表層の)が其の運動の可否を決定するわけではない。ちなみに私はバックベンドの状態で瞑想ができる(笑)し、その姿勢を固くキープするのでなくそこからユサユサと身体を揺すったり腕を動かしたりして、コアマッスルを更に刺激する。姿勢を立ち上げるときは無重力感を覚える。全身背部がギンギンに活性化する。その体感でパンチやキックをしたら、後ろからマスターがチカラを貸してくれてるような感じで手足が伸びる。



昨夜はシンタイが仙骨の一センに集中していて、腰がずっと集約拳を握っているようで、目が冴えざえして眠れずにいました。
私の肉体はずいぶん細いけれど、下丹田は千秋楽の三役揃い踏みの土俵の如くにオマツリ状態である(笑)。

シンタイとは正に横綱だ。









マッハ君の『統べるはなし』。





人の変化や進化具合は、虹色のようだとおもう。黄色と橙色のあいだに垣根があるわけではなく、なだらかに変色している。
チャクラもそうだ。七色のチャクラが七個あるようには私は感じない。赤色と橙色と黄色と緑色と青色と紫色と白色のあいだにありますのは、垣根ではない。

上肚真中心の直ぐ上、ハートチャクラあたりを『心中真』と名付けさせていただきます。肚上心中真と上肚真中心にも垣根はない。垣根はないが天の川がある。横隔膜である。

両カカトは副丹田球である。ここから奥股〜仙腸関節〜下丹田球へと、鯉が上ってくる。それは肚上心中真から正中心へと直下に刺さるチカラと合わさり、肚には三輪山の三ツ鳥居のような力感ができる。これが本体でありシンタイの礎である。 このシンタイがあると、自然と強健術のような踏みつけ運動がしたくなってきてムズムズする。が、そこは抑えて、気功や仙術の如くに静かに、肚の鯉に餌をやる。
すると鯉は天の川(横隔膜)を昇る。龍に変身しながらね。
昇天した龍をイノリとともに肚へ還します。
これをカンシャという。

肥田春充の肥田式強健術は、まるでこのようなことを、幻想チックにでなくダイレクトに素早くおこなう運動であるとおもう。そこには上記のような『比喩』でなく『理論』がある。
けれども、私は、理論というものだって、一種の比喩だとおもう。
いや理論こそ『タトエ話』なのである。

イメージングも理論も、シンタイからのコタエなのである。イメージしたからシンタイが出来るのでも、理論を構築したからシンタイが出来るのでも、ない。感覚も理屈もシンタイからやってくる。シンタイ動作をオノマトペで表現しようが理論で説明しようが、どっちこっちそれはタトエ話である。



身体にシンタイがあるならば、存在のリアリティやクオリティは激変する。虹のようになります。余談ですが、『面白い』の語源は、『顔が白い』つまり『表情が輝く』です。 表情が輝くのは、空が晴れて天から光がさすからだといいます。天晴れ→あっぱれ です。んで、あっぱれといえば『あっぱれ正中心』という秀逸なタイトルのブログがありますよね(笑)(笑)。オモシロイやろ。









あれは何年前







♪耳に私のうたが とおりすぎてゆく

(ちあきなおみ、喝采)


ここをね、椎名林檎の巻き舌のパンチ歌唱で、聴いてみたいんだ。


記憶にあるようなないような感じですが、私が子供の頃、ちあきなおみは『8時だよ全員集合!』によく出ていた。当時は当然カトちゃんやケンちゃんやヒデキやスーちゃんにしか興味なかった。だってさ、昨日はじめて知ったことですが、ちあきなおみって、友川カズキが作った歌とかも唄っていたんだよ、情念全開で! あんなのを五才の子が見たら、トラウマになるとおもう。てゆうか、もしかしたら当時私はそれを何気に聴いており、潜在意識に何か刷り込まれたかもしれない(笑)。

ちあきなおみは、『ブルースの女王』アワヤノリコ に認められた数少ない歌手の一人だそうです。女王はとにかく歌手に手厳しい辛口の人だったらしい。そういやあその女王にしても、私ら世代からすれば普通、彼女はモノマネ番組の審査員長という印象しかない(笑)

戦時中、化粧をしてブルースを歌うことは、憲兵から目の敵にされ、非国民扱いをされる時代だった。でもアワヤさんは屈しなかったらしい。レコードは次々に発禁にされても、ライブはやめなかったらしい。
今、マスクをしないで街に出ることよりも、はるかに気骨の要ることだったかもしれんね。
みんな今、ウィルスで死んじゃうのかもしれないとおもっていろいろやってるんだろうけど、逆にそんなことしてたら死んじゃう人だっている。
女王は、モンペを履いて唄うことを命じられたそうです。んな話、今聞いたらバカバカしいですよね。だけど当事者達は本気なんだよね。もちろん本気で拒否したね。女王だもの。


ちあきなおみさんも歌に対してとても誠実だったという。でも私が20代半ばぐらいの頃に、歌の世界から、とつぜん身を引いた。










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