何年前からか、午前中に外で肥田式なり真体功なりを行うと、視界がキラキラ〜って輝くようになっている。
何年前だったか、10才頃の自分の写真を見つけて、ビックリした。信じられないくらいスッと自然な直立をしていた。一体どうやって立っているのだと聞きたくなるほどに。でもその10才の彼はきっと答えられない。何かをやってはいないのだから。姿勢よく写ろうとしている様子もない。つまり姿勢が芝居がかっていない。愚かなのは質問に答えられない彼ではなく、質問そのものである。
私達は確かに「時間」を要しなければ歯も生えず背も伸びず大脳も発達しない。でも時間や努力を使わなければ獲得できないものでなくて、はじめからあるのだがシンクロ率が低下しているものがあります。
努力の成果でキラキラ粒子が誕生しているわけではない。そしてそれは「私のモノ」ではないのでダイヤモンドのように売り買いも出来ない。
二分後に君がきた
大袈裟な荷物しょってきた
はじめようか天体観測
ほうき星をさがして
BUMP OF CHICKEN 『天体観測』
80年代後半〜90年代前半頃のカルチャーが今、お笑いネタになったりプチリバイバルしたりしていますけれども、あの頃はサブカルチャーってのもしっかりあって、その入口に「宝島」って雑誌があって。ワンレンに肩パッドにヴィトンに扇子ばかりがバブル時代のスタイルではなく、お団子(もしくは三つ編み)頭に黒ブチメガネ、ラバーソールを履いた「ナゴムギャル」がいました。野沢直子はそれっぽかった。大きくくくりゃあキョンキョンや山瀬まみもソッチ側ぽかった。
その当時(87年頃かな)は、焼き肉屋もパチンコ屋も無い原宿が好きでした。六本木のディスコか西麻布のクラブか忘れたがそこいらで遊び、夜を明かして早朝に帰ってきた原宿。足モトの落ち葉と木枯しと、ひとっこひとり歩いていない街並みが、将来のことなんて考えていない十代の俺と俺の友達に、大人びた感覚を伝えてきた。
そんな感じ、ユーロビートとかランDMCとかビースティ・ボーイズとかで踊ってナンパして、そんな熱狂の最中には無かったそんな感じ。
あの切なさをあらわす言葉が浮かばない。あん時も言葉で表現できなかった。でも俺と俺の友達は、ひゅるる と舞う落ち葉を二人で見ていて、二人で同じことを感じていたのでした。
散歩の一歩、一歩。
その一歩はかつて踏んだことのある一歩 ではなく、一歩一歩が新鮮な一歩。 右足左足を機械的に交互に出すだけの退屈なルーティンワークではない。一万歩歩いたなら、一万回新鮮な身心になるのである。
単気筒エンジンのバイクには歩くようなフィーリングが少しあって、その最たるものはカブのエンジン。そういやモンキーの生産終わっちゃったんだってね。
若い頃の私が今いたら、散歩とスーパーカブで趣味は事足りるこのオッサンに、哀れみの一瞥をくらわすのだろうか? こんなオッサンにはなりたくないなと思うのだろうか。
そんなオッサンからそんな若者を見たなら…そっと微笑んであげよう。オマエには明日があると。俺には今があると。
次回予定 「ちんぽ」
日々、よく午前中に、更新された体感を味わうのですけれども、ある日のソレは、体内感覚とは違うものでした。
体の外にナニカがあるのでした。あえて言葉にするならば「愛しています」 そんな成分があまねく満ち満ちている。そしてそれは網目のようにある私の身体の中へも、というか中にも、区別なくあるのでした。
愛しています。 この言葉でソレが表現できているかわかりませんが、、ソレはヒトの感情のようなものではありません、
精製された砂糖のような甘味ではない。不足したり枯渇したり中毒するような糖分とはちと違う。
それは獲得するとか奪い合うとかで得られるものでもなく、誰かには受け取る資格があって誰かには受け取る資格がないものでもなく。
果てしない理想の投影、つまりたんなる私の幻想だったのかな、白昼夢だったのかな。
でもソレは黄色っぽい感じだったな。気づけばいつだってあるみたいな。気づかなくたってあるみたいな。
禅では「ブッダに会ったらブッダを殺せ」といいます。このあまねく満ち満ちる蜜が、しょせん私のイマジンならば、それは、要らん。
願いによって出現するものであったり引き寄せないと無いものであるならば、それは砂糖だよ。
ちぶる整体施術の特徴は、仙骨と頸椎の上部に手当てをすることですけれども。
この頸椎上部(一番二番)の形を見ていて今さらながらに大発見をした。
通常、頸椎二番(軸椎)は仏様が座している様な 形と表現されますが、
違う! これはまるで男性器じゃないか。 そして頸椎一番(環椎)はまるで女性器だ。環椎の洋名はアトラス、アトラスとは宇宙とか天とか的な意味でしたっけね?
とにかく、軸椎と環椎は、まぐわった形をとっています。
一般的な整体やカイロプラクティックは、骨の歪みを正します。物質的アプローチをとります。でも私は、内なるエネルギーが歪ませた体は外からの矯正で治ることは稀であるとおもっています。ですから歪み具合は診るものの、骨の矯正という方法は滅多にとりません。
首と頭の境は下から上がる男性性エネルギーとそれを受容する女性性エネルギーの出逢う場所であり、それはまるで、スサノオとかインドのシヴァ神の物語が連想 されます。気功でブロッキングが起こりやすいのはこの頸椎上部です。
でね、氣や良い脱力姿勢というのはですね、血の汗流す男の根性的な鍛練では追いかけても追いかけても身に付きません。任せなアカンのです。天地に。そして、氣と良い脱力姿勢は、鍛練型メソッドを緊張して行うことでなく、セックスのときの女性の、ある姿勢の取り方に大いなるヒントがあるのです。
次回予定「愛しています」