真体功 火の巻

脱力脱力脱力、何もしない何もしないと度々言うこのブログ。

しかし、脱力の極みは端的に言いまして、死です。ニルヴァーナへは、死をもって到達できる。誰であれ。

肥田春充の強健術は、一回一回ハラキリでもしているかのようにみえる。 でも生き生きと活きておる。

どういうことでしょう。

精神論ではなく身体の構造の話をします。「何もしない」の極致の死の1歩手前は、自然体休養姿勢です。身体の構造に何も負荷をかけないようにする。しかし、何も負荷がかからず何も拮抗しないのであれば、もう存在のしかた自体が、この地球やヒトのありかたとは別種のものになる。

立つということは、「横の委ね」を「縦の委ね」にすることでありますが、縦に委ねるには、構造的には不自然といいますか、相反することが同時におこなわれる。 腹と腰つまり骨盤の構造において。左脳と右脳の働きにおいて。 引力に完璧に委ねながらも引力ゼロ、引力に反しながらも引力100の状態。腹にも腰にも力は入れないのに、チカラが生じる身心の配置。その配置を決めるのは身心をコントロールしているはずの「自分」ではない。もちろん自分が想像する神ではない。もちろん他人が想像した神でもない。


何らかの修行をしようがしなかろうが、善いことをしようが悪いことをしようが、いつ死んでもおかしくない私達は、死ぬまではなぜか生きます。勝手に空気を取り込み、勝手に吐き出しています。

つづく





真体功 ミラーの巻

常に鏡が自分とともにあるとします。いつでもどこでも全身を写しますが、見たくはないときには見なくてもよい鏡が。

そういう鏡は、自己イメージのチェックに使われることでしょう。目標、達成、努力、成功法則の実践などに使われます。 おそらくその鏡は、たとえばエックハルトトールとかマハラジとかクリシュナムルティが言うところの「自己観察」には使われません。「自己監察」に使われる。


不意に、自分が全く意図しないときにだけ出現して自分を写す鏡があるとします。一瞬、見知らぬ他人を初めて見るときのようなフラットさで、鏡に写る自分を見ることになるとおもいます。そのときはじめて自分が自分を「観察」します。

何かの実現に邁進したいとき、前述のような鏡は成功するための必須アイテムになることでしょうが、瞑想ですとか内観に使われることはない。自分が見たいものしか見えなくなっていくからです。ハラの黒さだけは見えなくなっていくからです。






真体功 龍の巻

関節に、力を溜めない。
上腕と前腕(ヒジ)、上脚と下脚(ヒザ)はわかりやすいですけれども、椎骨(背骨)24個の間も関節です。手足の細々とした多数の骨と骨のアイダもそうです。足、足首なんかは立ったり歩いたりするとき知らず知らずのうちに固く使ってしまうかもしれませんが、ホントは逆に、精妙なセンサーのごとき部位です。

骨と骨の、アイダというアイダに力を溜めないんだ。流せ流せ

頭蓋骨の縫合(ヒビ)だって固めない。仙骨だって、1つの骨とは言い切れない。 みんなみんなぐらぐらのゆらゆらにしてしまえばよいのです。そこにビッ!と芯を入れてくれるのは筋肉の収縮緊張や固めた気合いではありません、氣が通るのです透明な芯が入るのです深層筋には張力が生まれるかもしれませんが芯そのものは姿は無いのです。目に見えるものは目に見えないものによって。


そのうち、固めないとか固めるとかを行ったり来たりする作業に手間やヒマをかけなくなる。アイダはうねる。うねる一方になります。うねることは活生そのものですエクササイズでも治療でもありません。


次回予定「ビッと入る芯とは、シータ波ベースのガンマ波かもな」






真体功 明の巻

失われた肚をとりもどす、という作業を「修行」「道」と呼ぶとするならば、その作業はなるべくサッサと済ませることです。

(肚…)と思って何かをしているうちは「自分」が引導を明け渡していないからです。

肚から何かをすることによって、常に「何もしない」でおれる。 肚を求める作業に一生を使うのと、肚から一生を生きるのは全く質の違った 話です。


単純な一例をあげますと、
肚で歩く→疲れない→てゆうか一挙手一投足が愉しい→ますます歩く→ますます肚は活きる→健康や超基礎的運動能力は勝手に強化される→ますます然々… と相成ります


と、記述する私自身の肚はナンボのもんじゃといわれれば、大したことはないのですが、「自分はまだまだ精進せんといかん」とはあまり思いません。
「自分」が肚を鍛えるわけではないからです。肚が肚を生きて肚が諸々を活かしてくれるからです。




真体功 土の巻

3年ぶりに砂浜を裸足で歩く。足跡のつきかたが3年前までと違う。このガリガリの体重にしては随分深くめり込んだ跡がつく。

ちぶる整体をはじめてから、整体の内容も自身の体感も随分変わっていった。商売的には全くうまく出来なかったけれども、とにかく「やってみた」 ということは重要なことであった。(自分はまだまだだから)と思ってやらないでいたら、一生、そのままで終わるのである。そもそも「自分」などというものは、誰であれ一生未熟者である。悟りの修行みたいなことをする人のほぼ全員が悟れないのはたぶん自分を悟らせようとしているからでしょう。

今後は、全く足跡のつかない歩きかたもできるようにしようとおもいます。

足の、重心が落ちる位置(土ふまず後端、踵)と真中心(動作の基点。腰の最上部)の氣の道を分断させないこと。 股関節は、子供を遊ばせるように遊ばせる。骨盤正中心は結果、生誕する。

氣をメッチャ下げればムッチャ上がる。メッチャ下げるというのは「脱力」に相当する。ムッチャ上がるというのは「腰が決まる、チカラが出る」に相当する。身体前面は下がる。後は上がる。


中国気功では、足まで気を回すのを、大周天とする流派としない流派があるみたいですが、これは、真体功としては、中周天(笑)というのが適切な気がします。



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