最後の私者




不摂生とお金と自分が大好きなワンマン社長が、不摂生がたたって心臓を壊して、心臓移植を受けたあと、自然と健康とコミュニティーを愛する人格者に ガラリと変貌したという話をTVで見たことがあります。

大病をしたことで猛省して心を入れかえたという訳ではなく、移植した心臓の元の持ち主ソックリな人格に変わっちまったんですって。


前にも少し書いた、背骨に伝わる振動。これって、「私の」ものではない気がする。肉体が滅んだとしてもこれはなくなるわけではない気がする。死んでみないとわからないことですけどね。死んでみたい。あ、死んだらわからないのかしら(笑)


ウルトラマンはハヤタに命をあげた。ゾフィーは複数の命を持っていた。
個別の命、というものはそもそも存在していないのだと思います。
ならば自我というのは、ただのオプションツール(笑)オプションメモリ。


最後のシ者。最初の。


散文的な話

これが最後だって光っていたい


東京事変の「閃光少女」のこの詩を聴いた時、(これが最後だったとしても)光っていたいと言ってるのか、(これが最後だウリャー!)っつって光っていたいと言ってるのか不明でしたが、どっちこっち号泣してしまう名曲だ!。林檎ー!ちぶる整体にこないかな、林檎。(笑)

パフュームの「ポリリズム」は哀しみに満ち満ちた名曲だ。あれは鎮魂歌だ。泣く(泣)。


宣伝ツールとして当ブログは始めたのですが、宣伝つってもね、そんなに書くことはないわけですよ。 凝縮して言うなら「来いよ」 これだけだよ(笑)。

私は小説を読んでも大抵内容を覚えていないが、コインロッカーベイビーズだけは映画を観たかのような記憶が残っている。


そういえば、昭和〜平成数年位までだったか、新宿駅東口の構内に、「私の志集 300円」という手書きの看板紙を首にぶら下げた女の人がいつも突っ立っていました。一体どんな志だったのだろう。

同時期に同東口に、ーを売るパンチパーマのオッサンがいました。 判る人には判るゼスチャーとアイコンタクトで、営業をしてましたね。一体どんな味だったのか… は知ってたけどな。



私は今しか知らない
アナタのふふんふふふんふふーん



シンプルな話

リラクゼーションの仕事を始めたばかりの大昔の頃の話をします。

客を相手にするのはまだ10人にも達していなかったのではないかという位の新米中の新米の時に、施術を終えた御客さんが顔を上げると、ボロボロの涙でメイクも落ちてくしゃくしゃになっているではありませんか!

何だ!?私は何かマズイことをしちまったのか?と一瞬アセリましたが、その人は「うぅ…キモチが良すぎて感動してしまいました…ごめんなさい。ありがとう。」と言った。

どう考えても当時の私の腕がそんなにスペシャルな訳はない。しかしその人は子供のような表情で清々しく純粋な笑顔で帰っていく。

自分の腕は、間違いなく未熟だと自覚していた。だからこそ逆に、ひと押しひと押しとても真剣で、とてもキモチが込もったタッチだったのだろうと、後になって理解しました。氣というよりキモチもまた、伝わる。


40才位の時にボディケア業の講師を務めた時、キャリアの浅い人達に、「あなた達は今の時点でも、とてつもない武器を一つだけ持ってる」といって、キモチの話をしました。

思考感情を否定するかのようにも受けとられかねない記事を書いたり、氣は気分ではないと書いたりしてますから、キモチを肯定する話を意外と思われますでしょうか。


氣でもキモチでも、それはテクニックではない。そこは同じです。矛盾やウソの存在しない状態、そこは同じ。



チブっちゃえば?。

余計な思考や感情は、身体に情報化、パターン化されて染み込み、動作の癖や緊張として形成され、ある意味それで「物体」と化しています。

よって、ヒトは思考や感情を「自分」「自分のもの」だと感じて信じて疑わないのでしょうね。

それで何の問題も無く生活ができていると、尚更、何の疑問も持つことはありません。それが為に何らかの問題が生じ、にっちもさっちもいかなくなるまでは。

思考や感情を引き離すということは、自分がバラバラの滅茶苦茶になってしまうかのような錯覚をしてしまいます。ヒトが瞑想をうまく出来ない理由はこれです。 成功哲学や御利益スピリチャルや、リキミ寄せの法則が流行る理由はこれです。引き離すことはせず、もっと都合の良い思考感情にすり替えればよいのだと言うものの方が、ウケるのです。


ちぶる整体を受けたのをきっかけに、癒着していた思考感情とサヨナラできた典型的な例は、例えば記事「自己への帰還」などにも書いた(コメントもくれた)、みつばちさんの例です。

ただ。 大抵の人は、そんなことを望んでいません。望んでいないことをやる必要はありませんから、しません。身体が楽になった、スッキリした、痛いところが良くなった、それで十分だ。

もっと深い何かを本人が望んでいるのに簡単にはいかない場合もあります。回を重ねないとそう簡単にはいかないケース。しかしそうでなく実は本人の望みは御利益スピリチャルの類いだった場合はね、何度やってもちぶる整体から得られるものは何もないことでしょう(笑)。

脱気

愛さん コメントを有難うございます。


ルネッサーンス。


例えば気功法においてイメージトレーニングは、呼び水的な、とっかかり的な、ビギナーズアプローチとしての役割は果たしてくれると思います。
「大地のエネルギーを足裏から吸い上げるイメージでナンチャラカンチャラ」という想像をしてみることは問題ないでしょうし 、実際、カカトで息をすれば背骨で息が出来、背骨で息をすれば肺で大きく息ができる。 カカトは呼吸器官ではないのだからそれこそ実際の話ではないイメージ力に過ぎないじゃないかとツッコミを入れられそうですが(笑)。本当はもっと適切で科学教の信者さんも納得してくれる言い方があるのでしょうが、これ「比喩」ではあっても「イメージ」では ないのですよ。


でね、話を戻します。とっかかりはイメージ法で 構わないとしても、いつまでもイメージばっかり育んでいると、こじれてきます。単なるオノレの好き嫌いや気分のことを、邪気だの聖なる気だのと本気で(笑)語るようになったり、とにかく道をハグレてしまいます。氣はイコール「気分」や「思い」ではありません。
ポジティブシンキング同様、イメージ法は、いつまでも使うものでは、ないだろうねぇ。


コマネチ。


気象情報を見聞きしていて、思う。異常な豪雨や 暑さ寒さの「理由」を、大陸からのナントカがカントカだの、今年は太平洋の気圧がドーシタからだのと述べていただくのはいいのですが… それ、「理由」じゃなくね? 同様なんですけど、肩凝りや腰痛の理由を、解剖生理学的に考えたり説明したりしなければならない時、それっぽい事を言うことは私もたまにします(笑)が、やはりそれは、「説明」ではあるが「理由」ではないと思う。

日本では熊、アメリカではワニの、人への攻撃が多発しているそうですが、その理由を専門家に聞いても、「説明」しか出来ないんじゃないのかね。
「大地や神が怒っている」んすかね?こういうのも「理由」としてはどうだろうね。今ドキは、ジブリ映画的ファンタジーとしては皆同意しても、現実にはどうだろうね。私達は 、裸足で土と暮らさなくなってしまったからね、そういう比喩も、もうピンとこなくなっちまったのさ。



ダッフンダ。




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