宇宙飛行士が体験する無重力は、「身体が無重力空間にある」ので、プカ〜と漂うようですが、シンタイコウ士の無重力感覚とは、「身体に無重力空間がある」といっていいかもしれません。身心がフワつくでもなくズシンと重くなるでもなく、 重力にも無重力にも束縛されないというか、そういうチカラは自身の外にではなく裡にあるようになるのである。


空間と肉体。

肉体及び肉体意識が自分であるという感覚はフツーですが、それだけでは重力や無重力にただただ影響を受ける、あるいは抗いつづけなければいけなくなります。肉体ではなく空間のほうに自己の主体が転換するなら、空間という自己が肉体という自分を扱う。

空主体従です。


ここでいう空間とは、「空想」ではありません。「思考が現実化する世界」とか「魔境」とか「天国」というようなものは、ニア空であり、無色透明な空とはちがう質の空間だとおもいます。空想のニア空からは、願望や執着といったようなエネルギーが、肉体をコントロールしますけれども、それは純真根元の空力ではない。



つづく






人虚



♪勉強しまっせ引越しのサカイ

(サカイ引越センターのうた)



加齢による呆けか、分別思考能力が著しく機能していないのか、しらないが、高椅ジョージと大友康平の区別がつかなくなってきた。
どうでもいいものの区別がつかなくなるのはかまわないが、たとえばブルーハーツとジュンスカイなんちゃらの区別がつかなくなったら終わりだとおもう。ニューハーフと女の区別がつかなくなるのは逆にいいかも。ジーパンとジージャンの区別がつかなくなると問題になってしまうが、太極拳と俺の区別がつかなくなるのはいいんじゃね?。スペシウム光線と八つ裂き光輪(別名ウルトラスラッシュ)は同じ成分だから、まあどっちこっち区別がつかなくてもいいや。

善と悪の区別は以前からあまりついていなく、嫌いなものと好きなものの区別は明確についていたが、今はどうだろう、そういうの考えようとすると、頭がボンヤリしてくる…


つーか今日は目眩がきつくて、目が縦に二つ並ぼうとしているような感じで、あんまり動けませんでした。横になっててもクラクラしてて、やがてスーっと眠くなってきたとき、ラクになって、(これがもしも人生の最期で、二度と目覚めなかったとしたら、なんかいいなあ。もう目覚めなくてもいいなあ) とすごく思いました。でも目覚めちゃったんすけど。まだなんかクラクラクラクラしてんだよね。

クラクラとラクラクの区別もつかなくなったらどうかな。あ、幾何学形を見てると何だかキモチワルイ感じになってくるときってありませんか?そういう感じにずっとなってる感じです。わかりますかね。
なんかね、ヒトの中心軸ってね、自我が思ってるよりもけっこう後ろなんだよ。おそらく、自我が見ている視界が失われようとしてるとき、目眩とか死のようなものを、かんじるんじゃないかな。知らんけど。


♪君のしらないメロディ
きいたことのねえ ヒット曲

(RCサクセション トランジスタラジオ)










♪手をあわせて見つめるだけで 愛し合える はなしもできる

(ピンクレディー、UFO)


ときどき唐突に見てしまう霊的ビジョンのようなものについては、30代の頃のように意味深に捉えすぎて精神的に変なこじらせ方をしないようにはなっているのですが、かといって悟りの修行僧のようにひたすら無視とかしようとするのもまた不自然なことのようにおもう。見るものは見る。それ以上それ以下でもない。ちなみに作家や芸術家、偉大な発見の先駆けを担うような科学者すらも、むしろ幻想は創造の栄養物であったりするのではないか。

最近たまに唐突に観るUFOの脳内幻相について、ボディワーキーになんとなくおもうことを書く。
宇宙人との交信が始まっているのではなくて(笑)、たぶん、身体の奥深くの無重力感覚がそんなイメージ映像になっているような気がする。
円盤だけど「宇宙人の乗っている宇宙船」とまでは言い切れない。だがフリスビーのように遠心力で飛行しているわけではなく、静止していて、磁力と密にかかわった物体に見える。

肉体がリアルに空中浮遊する人が非常に稀にいるみたいですが、私はそこまでのリアリティはない。が、そんなのインチキ話だとも感じられない。
たぶん、食事と磁力体はちょっと関係があるような気がする。沢山食べたら重くて浮けないとかいう話ではなく、質的な問題です。一般的な意味での「いい栄養」を摂ればいいわけでもないとおもいます。フツーの栄養学でいいとされる食事というのはフツーに重力とかかわってエッチラオッチラゴクロウサンな活動をするためのスタミナ食でしょう。

ところで私は、インナーマッスルについてどうこうやっているものの、骨格筋よりもインナーの内臓筋についてはさほど研究していない。よって食事はただの雑食である。比較的アッサリ目のものが好みだが、頭で考えたメニューは採用しない。かといって欲求するものが自然と身体にいいものだけをチョイスしているとまではいえない。運動法ほどには食事法を語れる者ではありません。ごめんなさい。

食事は重要な行いである。でも私は、美味しいものを十分に食べることが人の幸せの基本とはあまりおもっていない。また逆に、20代の頃は肥田さんを真似て生発芽玄米をスプーンで一杯だけ摂る食事を試していたことがあるが、何もいいことなんてなかった(笑)。いきなりそんなことをしてもね。


しかし極端なこと言わせていただくならば、食事はアルコールやニコチンよりも巧妙に人に根付いた「依存性物質」である。

※年のため申し添えておきますが、空中浮遊をするための食事の話をしているわけではありません

つづく






元真剣



姿勢をきめるとき、骨盤がグルン!と反転するかのような身体内部の力感があります。陰陽図が腰腹で半回転するような。

身体外部の操作で、たとえば「腰を反って」これをおこなうことは、私にはできません。順番が逆なのです。内部が回るから腰が反れるのである。尾骨が盛り上がるから腰が入るのであり、腹が落ちるから尾骨が盛り上がるのであり、胸が開かれるからそれらはそうなるのであり、遅い頭からはコントロールしないゆえにそれらはそうなるのです。


張り子の虎とか絵に描いた餅のように姿勢をつくってでも、そのようにしていればやがて中身が伴ってくるというパターンもあるかとおもいます。「ありがたやありがたや」とアファメーションしつづければ有り難いことを引き寄せるだとか、わざとでもいいから口角を上げていれば楽しくなってくるだとかっていうことと、同じことがありえるのでしょう。ですが私はそのような方法はあまり向いていない。太極拳も強健術もたしかに型稽古はしましたが、それは地図を見ているような作業に過ぎなかったかもしれません。

たしかな内部感覚がないからと、型稽古に没頭するやり方は、アリガタヤと何万回でも唱えるというようなやり方に似ているように感じてむしろ私には逆効果だったのです。「アリガタヤ」と唱える自分が奥底で「ウソだ」と感じてしまうのです。アリガタヤなんてサラッサラ思っていない自分が猛烈に反逆するのである(笑)。わざと口角を上げた瞬間、自分が邪悪な偽善者にしかおもえないのである(笑)。腰を反ったところで、随意でブウ!と腹に圧をかけたところで、「なんやこんなもん筋トレやないかい!アホくさ!」とおもってしまうのです(笑)。


たぶん、私は、強健も、幸せとかも、あまり求めていないんだとおもいます。望んでいるものはべつのところにあるのです。


つづく




シセイだ。シンタイコウだ。



脱力ができていて姿勢による力がまるで土管の中を勢いよく流れる水のように使えるならば、上げた腕をストンと落として手を太ももに当てるだけでも、かなり強烈な刺激がくるものです。集約拳を握るなら尚更に、ハンマーを振り落とすようなズドンとしたチカラになる。丸太のような腕である必要もない。現に私の腕は枯れ枝のようである(笑)にもかかわらず、である。

この脱力この姿勢力で、鼠径部を叩く。臀部を叩く。肩を叩く。ズシンズシン、ドスンドスン、ズッコンバッコンもといズドンズドン。
名付けて「シンタイコウ打」。

全身壮快になる。これを自身にではなく他人に行う場合は、どこかの痛みの治療やリラクゼーションには向かないながらも、身心を非常に活発化させることができるとおもう。
ただし、受ける人の身体がその刺激に対して抵抗反応を示した場合は逆効果になる。施術のプロとしては当然のことながら骨を叩いたりだとかダメージを与えるように叩くわけではなく、痛快に効くように打つわけですが、やはり相互信頼とか馴れが必要でしょう。

手を当てるだけの気功療法ですらひそやかに抵抗している人は少なくないのだから、身体の奥にまであからさまに響く刺激に対して防御反応が生じるのはある意味当然のことともいえるので、打たれても比較的抵抗感のない場所から慣らしていくようにすればよい。

受ける刺激に対抗するかのようにひたすら身体を固くされては、意味がなくなります。ボクシングやフルコンタクト空手のトレーニングではないので。
なもんで、抵抗する体に対した場合の術者も、より強く当てようとしてしまえばそれは療法ではなく破壊的攻撃になってしまいます。

この術は、お互いが「ボディワーク」というイシキでおこなうとよい。個と個のぶつかり合いではなく溶け合いのように行うとよい。叩くチカラも、受けたチカラも、溜めずに「通す」がよい。事実ボディワークなのである。


マッサージ師の行う「叩打法(ようするに肩叩きとかパンパン背中を叩くとかするやつ)」だってもしかしたら元々はこのような本格的な技だったのじゃないか??今フツーに行われているマッサージ屋のマッサージは、芯のチカラが失われていて枝葉末節の小技に堕落してるといったら言い過ぎかもしれませんが、仕上げのオマケ技みたいな手技になっています。「いい音を鳴らす」のが目的になっていたりします。

打法は相当優れた主技になりえるとおもうのです、ほんとにやるなら。
ドスドス。チョーキモチイイ。ナントモイエネー。マジパネー。

シンタイコウ打。





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