ノン ポリリズム

♪旅をつづける人々は

いつか故郷に出逢う日を
たとえ今夜は倒れても

きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく冷たい雨が降っていても
(中島みゆき。時代)



30代の頃に古代出雲についての探究に熱心だった私は、天皇の存在、天皇制というものについても、必然的にいろいろと学ぶことになりました。
当時は考古学や民俗学やスピリチュアルな本を読みあさり、気になる場所へは足を運び、私が知りたかった何かを探し歩いていました。そのなかで情報として入ってくる天皇制と天皇の歴史というのは、どうもその正体が今ひとつハッキリしない。古代出雲が探究の軸だったゆえ、むしろ、出雲族(国津神にまつろう人々)を滅ぼした天孫族(天津神にまつろう人々)の長、といったような話が沢山入ってくる。何かが巧妙に刷り変わったこの国の知られざる闇の歴史、といったテイなのです。

ですから昭和の大戦の悲惨な経験者でもない私ですが、天皇制というものにややほんのりと、負の感覚を抱いていたことは否めません。

しかしそれは歴史を調べたなかで抱いた感覚であり、現実の、平成天皇と皇后さまに対しては、また全然べつの印象があります。 大震災の一ヶ月後に、関東では最大級に被災したこの町に、天皇皇后両陛下が見舞いにこられました。私は避難所暮らしはしていないので実際に面会したわけではないのですが、あの日の町の雰囲気は、とても変わったものでした。沸き立っていたのです。ヒトの純真なチカラのようなものが。

このような事象をどこまでも斜に構えて考えたとき、日本人に根強くかかっているとても強力な集団催眠、とかなんとかということも出来なくもないのですが、そういうことを考えるほうが馬鹿馬鹿しくおもえるほどのお人柄が、天皇皇后両陛下にはあるようにおもいます。


このくにはふしぎである。








主の御心のままに、シンタイコウ。




♪ああ人は むかしむかし 鳥だったのかもしれないね

(中島みゆき この空を飛べたら)



古墳の形やナスカの地上絵とか、各聖地の点と点を結ぶ線(レイライン)が天上から見ると幾何学的図形をしていたりとか、一体、誰の目線でそういうものが配置されているのかとおもいます。でもレイラインは、見るためのラインというよりもラインが即ち点と点つまり各パワースポットをパワースポットたらしめているシステムの表れなのだろうとおもいます。

身体の正中心についても、とても似たようなものを感じます。正中心点、正中心力とは、それにまつわる各所の絶妙な配置つまり姿勢の取り方で立ち現れるものである。しかしながら配置といっても、それはひとつひとつ「置きにいく」ものではない。置かれるべくして置かれるのである。その設計図は、もともとは目に見えぬ正中心自体が備えているものである。

ですがそのチカラをはじめからズバリ悟得できない私達は、骨盤底筋や腸腰筋をどうするとかリキミを抜くためにどうするとかいった、具体的なエクササイズをいろいろとおこないます。ボディワークだからです。正中心を漠然と信仰することではないからです。

しかしまた、そうして真摯に向き合ったとき、それをほんとうにやるのは身心そのものではなく、身心の奥の奥の奥底の、身心の主のチカラであると、かんじずにはおれないのであります。








キントレ



♪あいうえおじさん かきくけこども みんな欲しがるものがある

(おじゃまんが山田くん主題歌)


私がガキの頃の同級生に、やたらと替え歌をつくるのが上手い奴がいました


♪あいうえおとこの かきんたま おんな欲しがるものがある

(山崎くん)


私は子供心にこの歌を聞いて電撃が走りました。「そうか、そうなのか!リリン!
しかし。やがて大人になってみると私のキンタマを欲しがる女よりも私のキンタマを欲しがらない女のほうが圧倒的に多い現実がありました。なんということだ。そうはイカのキンタマとはこのことか。これではアカン。そこで私は、まずモテなければならんのだなとおもい、モテる努力をしました。かの肥田式強健術よりも熱心にね!

そしてその努力が実りを迎え、モテ期が到来したことがありました。しかし、そこでまた問題が勃発しました。私はキンタマの需要と供給のスムーズな流通つまり第一チャクラの活躍をさせたかったわけですが、女性の多くは第四チャクラを活性させたがったのであります。そうするとどうなるか。駆引きや取引などの政治的闘争になります。そうです、皆さん御存知の、カルマが生じるのです。いえ、モテる努力をしたときに、カルマが生じていたのです。いいや、それより以前に、種は蒔かれていたのでした…。


ところでこんな実話があります。聖者クリシュナムルティのもとに、ある修行者が訪ねてきた。その者は、禁欲の行をしていたが、欲望が一向におさまらないため、苦し紛れに、なんと自分のキンタマを切り落としてしまった。 そしてどうなったか。彼は欲望を超越したのでなく、生きる情熱を失ってしまったのです。その人は取り返しのつかないことをやらかしたことを知り、途方にくれてしまって、クリシュナムルティに会いにきたのです。クリシュナジはしばしのあいだ、ただしずかに彼に寄り添うのでした。


そんで私が山崎くんの口寄せで歌われた宇宙からのメッセージのシンの意味を知ることになるのは、何十年も後のことです。

♪あいうえおとこの
かきんたま
おんな「を」ほしがるモノがある



次回予定
「ウルトラリラックスと無限のチカラ」

「主の御心のままに、シンタイコウ」









真クロニ姿ティ



むかーし、東京国分寺市 に住んでいました。真姿(ますがた)の池 という池がありました。その池の水で顔を洗うと、病変してしまった女性の顔が元に戻ったという古来の伝説がありました。そしてその近くからの湧水が流れていく細い川に沿うように、お鷹の道 という素敵な散歩路がありました。観光地っていうほどのスケールでもなく、平日はとても静かで、街の喧騒からフッと隔離された非常に清々しいところでありました。

お鷹の道を散歩をしていたある日のことですがのう。川流れに急な落差のあるところ、ようするに滝っぽい状態になっているところで、何枚もの落葉が、水の渦に巻かれて、ぐるぐるぐるぐると同じ処で回り続けておりました。私はしゃがんでそれをしばらく見つめておりました。

ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。

一向にそこを抜け出す気配のない落葉たちを見ていた私はやがて、一枚の葉だけに集中しはじめました。その葉だけは輪廻の渦から脱出させられないかと、念だか意思だかを送ってみたのです。

ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。

抜けろ。抜けなさい。抜けっちまえ。ジョナサン。水は決してそこでとどまっているわけではないよ。どんどんどんどん流れていくぢゃないか。
なあジョナサンよ、おまいさんは、回る水でなく、流れていく水に、乗ってみ。乗れよ。乗れ!

やおら一瞬、やや深く潜ったように見えたジョナサンは、ひゅん!と勢いよく弾み、ついに渦から抜けて川を下ってゆきました。
達者でな、ってな。


身体は、吸気=交感神経優位=緊張、吐気=副交感神経優位=弛緩 が原則である。が、肥田式強健術は吐気とともに姿勢(腰)は大緊張させる。しかしながらその大緊張とは、身動きのとれない類いの緊張ではない。そしてその瞬間はアドレナリン分泌の主体ではないとおもう。

身心が生命の幾何学的ネットワークに同化落節するということは、ただボンヤリとして環境に巻き込まれていることではなく、また、抗うことでも、頑張ることでもない。








僕の全然全セイ

スピリチュアルや宗教では自我(エゴ)は否定的に扱われます。エゴを落とすために瞑想とかをします。でもボディワークでは、エゴからのチカラはシンプルに「これじゃ使えねーし!」という体感があり気づきがあります。
エゴからのチカラが悪いものだとかイケナイことなのかっていうような倫理じゃなしに、単に、使えねーチカラは要らないのです。要らないものには執着も葛藤も無い。


中心姿勢は正中心力でつくる、と言うと、それは特別なものであるとか、そもそもそれってなんなのってことにもなりかねないので、ここではまず中心姿勢=大腰筋のはたらきとします。大腰筋なら誰にでもあります。巷の大腰筋トレーニングはさておき、シンタイコウの大腰筋トレーニングは、まず、大腰筋の「知覚化」です。しっかりまっすぐ立つ というよりかは、「勝手にスッと立つ」状態があります。そのとき大腰筋は仕事をしているのですが、いわゆる筋肉にチカラを込めるときの感覚とはずいぶん違います。重力を超えて直立しているような体感です。これが大腰筋ならではの筋力です。

ここから、この状態から動くとき、全力を出すとは正にこのことかと感じずにはおれません。







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