子供のころに
わかりかけてたことが
大人になって
わからないまま
(ハイロウズ 胸がドキドキ)
マジで昨晩は死ぬかとおもった。原因がよくわからない身体の激痛。医師に診てもらわんとどうしようもないという選択が浮かばないかぎり私は滅多に病院へは行かないが、どうでもいいから一応行くべきではないのかとおもうほどどうしようもない激痛。
ジェットコースターから振り落とされそうになるような感じ。体感がクリアになった後日にやってくる、祭り縫いのようにグン!とまた後ろに戻る(逆に身体がキツくなる)ようないつもの感じのスペシャル版。
こういうとき、我流で気功等をやっていることが非常に不安になったりする。クリア化するということはつまるところ私の心身は消滅するということなのかもしれない、と(笑)。でもゴタクはどうでもいいからこの激痛だけは勘弁してくれとしかおもわなくなったりなんだりしつつ、いつの間にか眠っていたようだ。朝起きたらわりとフツー。
解体のプロセスで何がどうなるかっていうのは、解体されゆく「私」の知るところではない。
重いコートや革ジャンを敢えて着たい年頃がある。
鎧を纏っているかのような気分。いっぱしの大人になったような気分。ブーツなんかもそうだ。
ヒトの、根源や本質から敢えて離れようとするプロセスは、根源へ還るためのプロセスのかたわれかなもし。
大乗仏教や儒教というのは何だか「学習」というニュアンスを私は感じてしまう。徳だとか知識だとかを積み上げ人格者になることと、根源への帰還は、イコールではない。登り坂と下り坂のように違う。
「心技体」という言葉があります。心と技と体を統べるものは努力であるというような感じがします。それぞれをバランスよくビルドアップしよう、といった感じがします。 私はこれに興味が無い。
根源への帰還は、道、体、魂 なり。
私も歳をとったから、自然と下り坂を歩いていますが、 下り坂といえば直ちに「衰え」とはならない。むしろ覚醒であったりする。
仙骨はこんなにも動くものだったかと、身体はこんなにも統一し透明になっていくものかと、下っているのに昇っているかような、新たな体験なのにまるで古の記憶を思い出したかのような、そんなシンタイキーな身体を、丸ごと味わう、たそかれとき。
六茫星、ということでヘブライ語についても調べていたところ…オラ、びっくらこいちまっただよ…
「いづも」とはヘブライ語で最先端、最果て、最高、極 といった意味なんだそうだ! 「どっこいしょ」「ヤーレン」「ソーラン」「なり」「かな」もどうやらヘブライ語がルーツっぽいが、とにかくは私が十数年前に突然起こった自動筆記文を再び紹介してみます
《いくせんまんねんの たびにでて いづものくにへ おりたることなしに いつわりのたびをしか そのたびにはなし よりどころあるとわかれば いつものところへ もどるなりしか なりしか》
…。このあとにもたしかグジャグジャした意味不明な字を書いたが、あれはもすかすてヘブライ文字だったのだろうか?? 書いた紙はすぐ捨ててしまったので今となってはわからない。
つーか、ヒトのDNAには何が眠っているかわからない。私は神に選ばれし者でも超能力者でもないのである。
このわけのわからなかった自動書記文からやがて実際に出雲の探求をするようになり、考古学の本を読みふけった。でもそれだけではらちがあかないから、旅をした。その最中に、太極拳や肥田式をやっていても体感できなかった氣が通るようになったり、不思議体験みたいなことが断続的に続いた時期があった。反面かなり危険な目にもあい、ダークな日々を送ったときもあった。その頃の私は激しく社会だとか人のキズナを否定した。嘘八百の世界、ウソつき野郎共は全員死ね!死ね!死ね!!とおもってました
でもやがてそのあとたしか、決めたんです。俺はなる、俺はある、と。
つづく
突然ですがおもいつきで改名してしまいました
それから、従来「氣」と言っていた氣とは違う氣感、氣型の氣を、「真氣」と表記して区別することにしようかとおもいます。
それからもうひとつ、肥田式の三骨軽打法をしてきづいたことがあります。 手で叩く四点(左右の腸骨棘、仙骨、頚椎7番)を線で結ぶと、幾つかの三角面が出来ます。さらに骨盤底の三角面(坐骨、恥骨)も交えることにより、複雑で多面的な立体ダイヤモンドみたいなネットワークが形成されている。
こういうのは大抵、六茫星のように相対的な逆型もある。今単純に知覚できるのは鎖骨両端と尾骨。
そしてこれは単なる身体ポジションの話でなく、チカラのカタチである。「真氣のタマゴ」とでもいえるカタチである。。
このネットワークを総称して「大丹田」と名付ける(笑)(変更する可能性アリ)
次回予定「胸」
「今、ここ」 の今とは無限、空 であり、ここ とは制限された一個として確かにある、色 である。
さて肥田式強健術でこれをあらわしてみよう。
吸気(準備動作)において、すでに「ここ」に確かに在ることが肝要である。吸気(準備動作)で「今」からエネルギーを集めて呼吸(本動作)でそのエネルギーを下肚(ここ)に集約させる、といったテイの運動では、全くないのです。
常に「今」に在れるなら姿勢で「ここ」にも在れるだろうが、普通の私達(あるいはボディワークの特性として)はまず、「ここ」に在ることが先決される。
「ここ」を確かにするのは基本ではあるものの、「ここ」に執着するならばそれはいかにも即物的な体術である。肚に据わるというより重心の居着きである。
今か、それとも ここか という二者択一の運動をするわけではない。今即ここ ここ即今 の運動である。モチロン、「今でもここでもないどこか」を加えた三択でもない。
ここに在りながら今に在るという多元的な作法は、平面的な物理の原則に従っていてはおぼつかない。かといってスピリチャルっぽく「今ここ」と観念したところで行き着くところはどこにもありゃしない。それは夢気分、幽玄の世界の話である。
本動作は集約ではなく発火である、クロスポイントからの拡がりである、完全放棄である。
簡易強健術は「ここ」を確かにする運動である。しかしながら「ここ」は消滅させられる。そして「今、ここ」に再びある。それが肥田春充の至った運動である。