テンとセンとエンとシン

下肚に胎児のような勾玉のようなものを宿しているような感覚は下丹田の感覚といえるが、今の私は、肚全体(横隔膜下から骨盤底)のスケールで観音様みたいなのが直立してるようなかんじです。
そしてそれはそれにとどまらず、もっと上へ突き破って伸びあがるような勢いもある。

これを仙道のプロセスと照らし合わせてみると、大周天の「養神」「養胎」というものと酷似している。私のおこなっている「シンタイコウ」は、現実的には肥田式がベースであって、仙道をやっているつもりは無い。だが、以前からいつもいつも、勝手に、古代中国的伝承の氣感とクロスオーバーしてきた。だから今回も意外ではない。

仙道では上肚のことを「黄庭」というらしい。ここはシンタイコウとしても非常に大事な処である。なぜ肥田式は下肚のことばかりをいうのか、以前から腑に落ちないことではあったが、少しばかりその理由がわかった。肥田式における上肚鍛練はつまり各種呼吸法にあたるのだねと。

私が今まで自分勝手に思ってしまっていたニュアンスは、肥田式の呼吸法は筋肉トレーニングもしくは苦行でしかなかった。ブウブウと腹や胸を膨らまし ヘコまし、圧をかける。エア北京ダックかよと。んなもんやるかよ、と。
そうではない。あれは、上肚の脱力体操なのだった。


次回予定
「さらば、ヒーリング。さらば、ヒト」










インナーハイヤーセルフ

スピリチャルでいうところの、サレンダー(明け渡し)とは、何に何を明け渡すというのでしょう。

自分もしくは他人の妄想観念がつくった神、愛、五次元に自分を明け渡してしまうことではないです。それでは結局、信念のアレンジでしかない。つまり何も明け渡してはいないのだ。

仙骨を上げる、と前回の記事で書きましたが、より厳密にいうと、頭の命令によっては上げない。 仙骨に仙骨を上げさせるのである。頭は命令者ではなく観照者です。
肥田春充以外の人間は、皮肉にも肥田春充が嫌った「観念」で「正中心」を妄想してしまう。正中心が肉体物質ではないことが理由ともいえるが、仙骨(仙骨神経や付着する筋肉等含めて)ならば観念ではなく非常にリアルに体感できるのです。誰でも!

明け渡すとは、まず自分に命令をしている自分を 自真に明け渡すのだ。すると信念も信仰もなくても完全に自分が真自られる。自真とは、仙骨にしろ心臓にしろ、その物質の奥中の奥の空間から発する波動だ。

いつぞやに、「我を信ぜよ!」と壇上から宣言した新興宗教の教祖がいましたね。ブッダの生まれ変わりとか言ってましたが、あのオッサンが本当にブッダなら、あの言葉は「俺を信仰しろ」という意味ではなく、テメエを信じろ!という意味で言ってたのでしょう。
それとも、我が宗教に入る自分を疑うな!と言ってたのでしょうか(笑)。


ハイヤーセルフとかいって上ばかりをみていても、漂流してしまう。そりゃあたしかに頭部よりも上にもセルフはあるが、ゼロポイントに立つには、イカリ真自を癒して目覚めさせて肚に降ろす必要があるのである。









宇宙意識

このようなタイトルだと、スピリチャリーな、フワッとした上方のイメージング、といった印象を持たれてしまいそうだが、これは空想の話ではありません。

なぜならそれは仙骨にあるからです。


肥田式強健術では腰を「反る」と云っていますが、僭越ながら私は別の表現をしましょう。「腰を 上げる」。
仙骨を上げるのです。そして、腰と心臓を腹にささげる。しかし物体としての腰と心臓をささげようとするならば、肥田さん自身が後に述解した「邪道」つまり腰を丸めて横隔膜を圧下させた動作になってしまいます。肥田さんは「観念」を極力排除しました。ですから脚の踏みつけからくるダイレクトな反発力をもってして「気合」と呼びました。ですが、「氣」だって観念ではありません。脚を踏みつけなくてもスッと垂直に立てていればチカラは背骨を通っています。それは氣です。そのチカラをささげるのです。

すると拮抗するチカラがガツンと腰腹にきます。このガツンとくるチカラを正中心力と言うのでしょうか?いや、言いません。

ですが、普通の人なら、このガツンリキさえつくることができないので、過程として、身体をガツンガツンと錬磨することは必要だったりします。 しかし、正中心力はその先です。ガツンも消え失せ何もかも消え失せる、超絶妙な、針の穴のような一センがあるのです。そして、これは重要なことなのですが、その一センは探って見つけるものではありません。

と、ここまで言うと、ではアナタは正中心力を悟得したのですね? と思われるかもしれませんが、 ごめんなさい、少しフライング気味に語ってしまっています。
私は、やっと「下体」の型でガツンというチカラをこさえられるようになったヒヨッコであります。ではなぜその先のことを述べちゃえるわけ?と、お思いのかた、もう少し読み進めてください。

下体の難しさといったらマジパナイ。ですがその動作に正中心力は超集約されている。私は才能もなく努力もせず、愚直に下体をやり込むという日々はこの何十年の間、行ってこなかった。「難しい。出来ねえ。全然出来ねえから、つまらん。」よって、すごく回り道をしました。すごい回り道です。半ば遊びながらの。
そこで、チカラが身体を貫通するセンは発見できたといえるのですが、肥田式の下体ではそれができない。
肥田さんのソレは完全な自己放棄だとおもいます。私はそれができていない。天然地然自然超極限無限のチカラの上昇と下降と爆発に、身を捧げきることはできていないのです。

晩年の肥田さんは、強健術の教えを請う人が訪ねてきても、型を1回だけやってみせるだけで後は何もせず何も語らず、だったらしいですが、そりゃあそうかもしれません、だって、「命を惜しんでいる人」には決して出来ないものを、何をどうやったって、何も教えようが無いぢゃありませんか。

で、タイトル「宇宙意識」の話。
自分が描く人生の成功目標とか理想とかと、宇宙意識は、一致するものとは限らない。つーか、宇宙意識になったら、自分が描く自分の人生プランみたいなものは、無くなる。
では世界に振り回されて生きる羽目になるのか?とか 、では宇宙を救うヒーローになるのか!といったような考え、それは妄想観念なのでありますが、人生プランというのもまた、妄想観念であることを知るのである。









アストラルアクセル



心が死ねば真は生き生きとし






この一年の間に2回か3回あったことですが、睡眠中、身体がバキバキ!グワ! ってなって(擬音の説明だけではよくわからないかもしれませんが、ごめんなさい)、あんまりの急激な苦しさで目が覚めていました。身心がまるきりコントロール不能になるみたいな感じ。 肉体の病気もしくは心霊現象、そのどちらともおもえなかったし、少しして収まれば、そのまま寝て、忘れてました。


昨夜、久々に、それに似た様子でバキ!グワ!っとしてまた目が覚めた。く、くるしい。けれど以前と少しちがう。 以前は圧倒的に丸ごと身体がひきつる感じだったが、今回は、下肚がジーン、胸はギュウー、頭はスー。あ、あと、珍宝はヤケにフルボツキしていたように記憶している。なんといいますか、身体を貫こうとするエネルギーみたいなものが、ある程度、身体と融合しているといえばしているみたいな、身体が全面的に拒絶反応を示さないで、いくらか受け入れている的な感じだったのですが。たぶん、胸は一番抵抗していた。

肉体主導動作、気功(ケイラク)動作、真氣主導動作、はそれぞれ、ちがう。 とくに気と真氣は、卓球→テニスとか空手→柔道とかっていう運動神経の移行の話とはちがうし、卓球→柔道というチェンジ具合の話ですらない。とにかくそうゆうんじゃなくて。

フツーは、気功とかいったら健康とか武術とか、あるいは開運とか?、とにかく益になりうるからこそ、そのエクササイズをしたりするものでしょう?。しかしもうこれは、そういう話ではありますまい。
ケイラクの気は、なんだかんだいってもいくらか自分のコントロール下にあるものである。副交感神経や不随意筋を意識化する作業である。
だが、真氣動は、更なる自己の放棄が要求される。かといって、放棄すりゃあなにかスゲーものが得られるから放棄するとか、そんな取引ではない。


さてそこで、こんな話を不特定の人に向けてブログ記事にするのは如何なものかという気もしてくる。これはもうあきらかに、エクササイズ、ワークの話ではないのだ。
こんな話、関係ない人がほとんどなのではないか。気功とか姿勢による脱力とか出力とか、そういうことならレクチャーできる。でもこれは、そんな話でもない。


面と向かって誰かとシンタイコウの話をするなら、発する言葉はその時々その人々によって様変わりするものです。ほんとうに通じ合うためには波動言語を使う。シンタイコウのほんとうのところを文章で伝えようとしなくてもいいのじゃないか、いやむしろ文章にするべきではないとすらおもうようになってきている。








2 シンタイウォッチ

エックハルトトールという方がいます。瞑想とか悟りのことを伝えているかたみたいですね。

身心の風呂敷を広げて、中身をただただ観察する。たとえば「喜び」なら喜びと一体化してしまわず、「哀しみ」なら哀しみと一体化してしまわず、そこに喜び哀しみがあるのを感じもするが、感じていることを観ている自分があって、そのただ観ているだけの其れにも気付いているという意識。
その「観照者」は、眉間の奥のゼロポイントにいる。
人格キャラ的な意味での「クール」とは比べ物にならないクールさですから、自分がどうなろうが、一切かまいません。何の志向性もありません。観てるだけです、何もかも。ですけれど、ゼロ意識が人を無感情で無感動にさせるわけではありません。人として感動してようが思考していようがゼロ意識はゼロ意識のままです。

エックハルトさんはコレについて語る現代の第一人者みたいです。これはいわば頭の正中心である。そして、眉間のゼロポイントを揺るがさないのは、腹のゼロポイントである。



さて、私は今、ハートが苦しい。


つづく




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