加齢と体質によりカサカサな肌+痩せている+非社会的オーラにより、貧相オリンピック代表に選ばれてもおかしくない私ですが、それらとはチグハグに姿勢だけはよい(笑)。身体能力(スポーツ能力ではない)においては過去最高を更新するばかりだし。 ただし、生きていくためのモチベーションはあまり無い(笑)。


34才(15、6年前)の時点で私の身体には、肥田式的な中心ケイ道は、ほぼ全くと言っていいほど、通ってはいなかった。だが、あの頃とは氣の出しかたはだいぶちがう。ケイ道がちがう。


氣と中心(真氣)の違いを、詳細に解説することは未だよく出来ないが、その問題と関連している「自我」についての話を、すこししてみる。
自我はアカンもの、無くすべきものとする修行などは「過程としては」存在する。氣と自我はいささか相性が悪いからである。だが、中心氣が確立されるとき、はたして自我はアリかナシか?などという観念など、どうでもいいことである。


生死も同じ。生きるべきか死ぬべきかなどという観念などは、存在の焦点ではない。