姿勢をキメる。これは、これだけでひとつの全身運動です。
常に正しい姿勢でいる必要は無い。常にいるべきは、滑らかに流動するシンタイでいることです。人は「勝ちパターン」みたいなのを覚えると、そのやり方に固着する。たしかに正しい姿勢から繰り出す動きは綺麗であったり強かったリするかもしれません。けれども、ホントはその正しい姿勢とやらをとる「以前」がモノをいうのです。 多くの人は「あまりよくない姿勢」に固着している。そこからもっとよい姿勢をとろうと、何かをしてみる。もしよい姿勢がとれるようになったならそれはそれでよい。
けど。
キメた姿勢とキマッた姿勢は別物なんですよ。
つづく
人が出来ること、それは プロセスを止めず歩みつづけることでしょう。
カミの思し召しとは、あらゆるプロセスを許容していることではないでしょうか。
怪我や病気、争い、貧困、傲慢、過ち。地球が完全な球形ではないのは、未完の完の星であることをあらわしているかのようです。
プロセスってのは、頑張らなくても頑張ってもどっちこっち進むもんだし、えてしてキツいことが多いから、ジュウシンは落としといたほうがスムースにいきやすいです。
王者井上のパンチ力を科学的に解析したところ、踏み込んだ足から上がってくる回旋力が強力であったそうです。中国武術的にはテンシケイと呼ばれるチカラに相当するのではないでしょうか。そして井上は、正しく美しいフォームをミリ単位で追求しているそうです。肥田式かよ。
なんか、古武術かスポーツかっていうような括りは、つきつめるならどうでもいいものですね。「ヒト」自体がモノをいうのであって、ナニナニの有段者とか、ナンかの大会優勝経験者とか、そういうのもリアルタイムのものじゃない
。
そしてイチローは、前太モモつまり大腿四頭筋を膨らましてイイ気になっているような練習はしないほうがいいと高校生に指導したらしいです。そうじゃないよと。後ろを鍛えろと。
リアルタイムの「私」は、デカい実績とかも何もなく、一人で淡々とシンタイコウをしているだけの者であり、その実力を証明するナニガシカなどは何もないのですが、ナニカがあろうがあるまいが、中心練修会三宅先生云うところの「ナットク」を得るための行為は辞めないのだとおもう。
ハラとは下バラに丸いナニカがコロンとあるだけなのではなく、上ハラから下バラまでがハラであり、ハラのケイもあるのだということを昨日再認識していたのですが、
今朝、私は家事で、米を自転車に積んで精米に行ったのですけれども、自転車を漕ぐとき、ハラのケイが良く使われており、あまりにも楽にグイグイ進むので、電動アシストスイッチはオフだよな?おかしいな?と何度か確認していた。
これはヤバイことになった。バイクよりも自転車に興味が出てきてしまったのである。いやべつにヤバくはないのだが、なんつーか、このまま私はモーターサイクルとは疎遠になり、革ジャンは干からび、ブーツはカチカチになり、クラッチのつなぎかたを忘れ、、、てゆうかどれもこれも愉しみゃいいじゃんかって話にもなるのですけれどもね、まあとにかく、シンタイ性のあるものなら何でも愉しむことが出来るのは、ひとえに、ただの正坐が愉しいからである。これが礎です。
♪今 だけが 生きている時間
なのになぜ 待っているのか
月光陽光俺を照らせよ
月光陽光なんて力強い
(THE HIGH-LOWS、月光陽光)
少年のように活発に動きまわることだけが、今を生きているということではないのです。
重ね重ね申し上げることだけれども、坐禅は決して苦行ではない。そして立禅のような武術的気功的要素を欠いたただの精神修行でもありゃしない。過去や未来に念いを馳せて反省や期待に溺れる居眠り行為ではないのだ。
ここにはシセイがあるだけ、なのです。