古武道や肥田式的運動を修めている人なら、それなりのハラの中心感覚を力学的に捉えることができるとおもいます。重心とか、仙骨上部をクッと入れたときとかに、支点のようなものができる。それがカリソメの正中心感覚ではあるが。

では、ハートの中心ってどこだろうね。なんだろうね。胸郭を広げる筋力がつけば中心力か?
いやいや、だいいちハラにしたって腹圧や胴囲がどこまでいったら正中心に届くかってわけじゃないのと同じで、大胸筋や心肺能力をマックスに高めたら中心に行き着くのではない。

スピリチュアル的な意味でハートというとき、心のオープンさのことを指すかとおもいますが、何がどうだったら心がオープンなのでしょう。ポジティヴさでしょうか。引き寄せリョクの強さでしょうか。社交性でしょうか。どれだけ人にやさしいかでしょうか。

心をどれだけたくさんの他人に、どれだけたくさん開けるかを実践することや、どれだけ身体能力を強くするかの鍛練をすることは、同じことである。ところで実践や鍛練のゴールに待っているトロフィーは、果たして正中心でしょうか。アセンションでしょうか。
私は行為のすべてを否定するものではありません。が、実践や鍛練の動機が、賞与目当てなのか、内の内からなる衝動なのかと問いたい。


ハラの真ん中はチカラが入らないような感覚であったり、ハートの奥は漆黒の闇のような気がしたりするとき、人はつい外へ外へ向かっていくものかもしれません。ここには栄光は全くもって存在しないとおもうわけです。得体のしれない無にはなりたくないのです。
たとへ無になろうとする修行僧であっても、光明が欲しくて欲しくてたまらないかもしれないのだ(笑)。だけれども…

♪おお友よ、そんな調べではないのだ!
(ベートーベン、第九)


つづく