真体功の型が、ヨガと古神道の行と他諸々を掛け合わせたような珍妙で美しいものとなっています。
人体の、骨と骨はすべてくっついてはいないので、私達は骨を地面に刺すように直立しているわけではありません。むしろ水袋が立っているといってよいです。骨はその中で浮いている。
真体功の型は、水の結晶構造のような幾何学的な象徴的な型をしている。型を行ったあと、流水の如くに身体の動きがほとばしるのも、そういうことだからじゃね?。
結晶構造(姿勢)を整えるべくして整える力というのは、水を濁らせる作為的な意識によってではなく、水よりも細かな粒子の作用に他なりません。ケイラク(氣光の通路)の動きなくして水は動きません。
正しい型(構造)がただ一つだけあるわけではない。美しい結晶パターンって、いくらでもあるでしょ? パズルのピースを合わせるみたいに外から一つの型を出来上がらせるような行為は、真体功には無い。真体功はパズルじゃありません、万華鏡です。
見た目の整形をしていたって、不自由になるだけです。私は、アファメーションとか大嫌い。
ツツジ。
の横で男の人が光の玉を大事そうに抱えていました。生まれたばかりの赤ちゃんでしたが本当に光を放っていた。
そもそもはタマとは魂、古代は赤は光のことを指していたらしいので、赤子という言葉の由来もそういうことなんかね。
大人を整体してても、みなさんもともと光のタマだとわかる。
さぁて 今回は、いつにもましてぶっちゃけた記事をぶっぱなす。
私は仏教徒でもなくインドの神々を信奉しているわけでもないが、脳裏に黄金の神仏象が浮かぶことがある。芯体がよくチューニングできているときに。しかし1度、神仏象ではなく伊勢神宮の本殿が見えたことがあった。
仙骨からの微細な振動と、脳裏のその振動が胸で調合すると、胸がすくような全身が喜ぶようなアンバイになる。バシャールの波動ってコレじゃね? コレだと思う。やはり中丹田は真中心だと思う。手に波及するこの微振動は、屁理屈抜きで強力な癒しの波動です。
仙骨は出雲の力です。通常の人は仙骨が拘束半眠状態になっている。それが宿命なのかそれが開かれるべきなのかはわからないです。おそらく通常は、人はそれを怖れている。パンドラの箱みたいな捉え方を本能的にしている。脳(自分、自我、思考)ではコントロールできなさそうな能力を、封印しておるのです。
誤解や曲解を懸念してこういったような書きざまは控えてきましたが、いゃ〜スッキリするわ〜! コマーシャルやマーケティング意識で遠慮しねえからよ。んなもんやってると仙骨元気なくなっちゃうんだわ。
動作をせず呼吸だけの真体功のひとつとしては。
呼気とともに身体前面(顔も含むことが肝要)の力と気が肚、股、足へ落ち(引き潮にさらわれる如くに)、吸気とともに柔軟で細い細いそして強靭な力と気が背骨内側を伝って頭部まで昇る。身体内だけを感知するならばこういった表現だが、脚よりも下、頭よりも上、それに手の先よりも先の出来事もある。これは正しい呼吸法の仕方というより、身体がそうしたくてそうなっている状態、の説明。
姿勢動作を伴う場合は、吸気とともに下に満ち、呼気とともにさらに自己を放下する。その時、上昇する力と気。これはイメージの話ではないしイメージングでこれを行うのは適切ではない。なぜならイメージするということは自己を放下していないことになるからです。ニセモノの気が上昇することになる。そんなことが起きたのとそんなことを起こそうとすることは、花咲かジイサンと意地悪ジイサンの違いのようでもあります。「自己を放下しなければならない」ことだって意図的に行えることではありません。自己が自己を放下したくならないかぎり、それが行われることはありません。
はじめはイメージングや見よう見まね、力んだヤル気で武道でも体操でも行うのは普通のことです。それがダメだということではない。ただ、優れた本物のメソッドというのは、やがて本物の本来の自己に出会うことを誘導してくれる。それがメソッドとか修行とかの役割です。渡す。そうであることを知る、。
身体が自分だと思っているかぎり、身体が自分だという気しかしないかぎりですね、脱力は叶いません。だって身体に自分とやらが居着いているのだから。ハラにだろうが頭の片隅にだろうが自分がいてるまま、脱もへったくれもないでしょう。脱力風動作とか脱力的鍛練はできる。健康体操はできます。恐怖が潜伏したままの至福なら味わえます。
‥こんな記事は、心身の不調で整体を受けようかという人への宣伝記事にはもう全くなっていませんね。何なんでしょう。 あ、ちなみに宣伝文的なものは「詳細プロフ」にあらためて書きましたので 。ブログは主に真体功の進化発見発達深化日記といった趣で今は。
真体功。悪くいうなら「我流でいいかげんな気功」をカッコつけて名付けただけです。 ワタシにとって実に良い加減であります。実に。なんにもしなくなるほどなんにもしなくてよくなっていく。
yesウィーキャン、NO因果。