紫陽花シリーズ♪
まるでギャラリーに覗かれているみたいだ(笑)紫陽花も ちぶる整体が気になるようで…
私は先生と呼ばれて偉ぶりたいわけではありませんが、サービス業とは違うので、施術の主導権は私にあります。もっと厳密に言うなら「氣」に主導権 があります。
受ける人は私に従うのでなく、もっと開かれたものに身体を開いていきます。
「コッチがいいんじゃない?」 「…いいね!」 言葉にするとそんな感じですが、無言の身体の対話が行われます。 体の声を聴く。
氣を信じるとか信じないとかっていうのは、「思い込み」の話でしかなく、信じようが信じまいが、それ自体が体の声を聴くうえで邪魔になることは確かです。信じれば感じて信じなければ感じませんが、信じて感じる氣は、私は信じない(笑)。
在るものに気づく、そんだけ。
庭の紫陽花が色づいてきました。
氣は何時も存在しています。当たり前に。
スマホやロボットが存在している時代というのは、ほんのわずかな瞬間の出来事かもしれません。イノチが何度生まれ変わっても当たり前に在るものよりも、二度と味わわないかもしれないモノに夢中になるのもまた然りなのでしょうか。
答えは疑問よりも前に在るというのに。
氣の話をしましょうね
気功なんていったら「神秘」か「まやかし」と捉えられがちな時代が長くしつこく続いていますけれども。
気功師の言うことは今イチ信じられなくても、科学者が「身体の中は空間だらけである」と言えば、へぇそうなんだ、と無条件で信じますよね、科学教の信者の皆さん(笑)。
氣功はその空間へのアプローチです。水墨画でいうなら墨で描かれていないところの鑑賞です。楽器でいうなら音を出すパーツではなく音が鳴る空間の調整です。
身体を、「関節のある肉」と捉えるよりも「水の入った袋」と捉えるほうが、動きの質は良くなるでしょう。しかしさらに進んで、「風の動きの顕れ」ならば、非常に速く強く美しい動きができます。一般的な筋力を使った瞬発力 の話ではありませんので、デメリット的な意味での「軽さ」だって生じません。
氣功というのは、身体の空間に「氣」なるモノを詰め込むということではありません!
氣は栄養成分ではありません。重さもありません。
「色即是空」とは、心や念のことを言っているのではないのです。
面白可笑しくそれがルール
それ以上説明しないぜ
なんだかんだいってね、商売の体裁を整えようとし、不特定多数の人にドン引きされないやうにと、考えてはいたフシはありましたよ、ええ。
でも、そんなことやって楽しいか?ってことですわ。
目が覚めました。綴ります。
整体屋のブログですから、修行ですとか哲学宗教の様相で文をしたためるのは如何なものかと少し躊躇するものの、んなもんどうでもええやん、とっとと書き記すべしといふインナーボディの動作に従うアタシ。
私達は、祝福を受けにこの世にやってきました。
躾や教育を受けて正しく?生きるために、ではございません。祝福のない躾や教育は、すべて虐待です。奴隷政策です。
私達は、罪の清算をするために何かをしに此処にいるわけではありません。
日本国憲法に書いて あろうがなかろうが、私達は自由である権利を行使できるのです。何かの宗教に入らなくても、祝福は受けとれるのです。
たった今に!
ざまーみろ