ワクチンの話。










記事にしようかしまいか、しばらく迷っていた話ですが、アップすることにします。





私の姪っ子(10代)が、立場上の関係で、早くもワクチンを打った(打たされた)そうです。
で、副反応の高熱で寝込みました。副反応は異例どころか多発している(なぜか若年層ばかりに)らしく、解熱剤が当たり前のようにセットで用意されているそうです。

姪っ子は後悔&不快&不信な思いが渦巻いたらしい。
治ったし抗体もできたのだからいいじゃないかと言う意見もあるでしょうが、本人にとってはそんな『考え』などどうでもいいことである。若い子はそもそも感染してもほとんど発症しないのに、わざわざ『発症させられた』ような気分なんじゃないかなとおもう。




メディア情報より、ネット情報より、己れのシンタイ情報に耳を澄ませてみなさいよ。
単純に私自身は、インフルエンザでもワクチンなど打ちゃしないので今回も打つ気なんてさらっさらない。

陰謀論的な話によると、ワクチンの本当の狙いは女性の多くを不妊にさせてどうこう、とかいう闇の企てがあるだのないだのってことらしいですが、そんなことは私はさっぱりわかりません。どうでもいいから打ちたくないだけです。

でも早く打ちたくて打ちたくてたまらない人もまた多勢いるよね。そんな人は洗脳されているとまでは私は言わないが、はやく『恐怖』から逃げのびたいのだろう。
コロナ感染の後遺症で、ブレインなんちゃらっていうひどい記憶障害になってしまった人が多くいるのだそうです。若いのに認知症みたいになってました。
そういうのを知ってなおかつ、私は変わらない。

声を小にして言っておきます。
んなもん打たなくてよくね?



おわり

自由と型 その2





極論をいえば『腰の反り』も『胸の開き』も『脊柱の直立(Sカーブだけど)』も『出力』も、行為ではなく結果です。

では何の結果だというのか、といったら、脱力だとか無為自然とかサレンダーとか、なんかいろいろ言えはするのですが、、 そうして言葉にした途端、それは概念になりがちで、ひそかな行為になりがちで、つまり全然ちがうものになります。

脱力という行為はありません。で、また『なにもしない』とか言いかえたりしたところで、エンドレスです。


パンチの極意は『ただ拳を前に出すだけ』と言ったとしても、それはそれが出来る本人からはそうとしか言えなくなるが、聞き手としてはそれをそのまんま受けとることができない。
もしそのまんま受けとれる人がいたならその人は天才もしくは超ピュアもしくは修行に心底疲れ果て死を覚悟したような人だろう。






アボリジニ『真実の人蔟』の言い伝えによると、人類の超初期の人達の一部は、滝や岩などに姿を変えて地球に残り、しずかに我々に叡智を伝えてくれているのだという。 今風にいえばパワースポットのことだとおもうが、私は、それもまた、《型》なんだとおもう。







つづく かな わかんない

自由と型





先日、ふと久々に簡易強健術を十種すべて通しで行いました。じつにすがすがしい。簡易強健術に対していささか否定気味な私ではありますが、ちゃんとやれば、すがすがしい。

ちゃんとやる、とは。

簡易強健術十種は、十種のアウターマッスルを鍛えるつもりで行うのではなく、全身の筋膜に刺激を与えるつもりで行う。それが私にとっての『ちゃんとやる』です。

筋トレは、膨らましたい筋肉をしっかり意識することで効果が上がるといいますが、私は強健術やシンタイコウをするうえでは、正確な動作をすることで自然と伸展&拡張する筋肉&筋膜を意識する以上には、キモチを込めることなどしない。 『中心』もまた同じ。正中心にキモチを込めるとか、あり得ない。




さて武術系ではとくに、なにかと型稽古が小馬鹿にされがちです。『型は使えない』とジャッジされがちです。
しかしそれは型の真髄を体で知らないからです。型をやりきれない人が、型は使えないという。そりゃそうだ。出来ていないのだから使えるわけがない。


では正確な動作とは。型をやりきる、とは。


必死に愚直に型をやりつづける、こととはまたちがう。現に私は簡易強健術はろくすっぽやりません。でも明らかに20年前、10年前よりも中身のある動作をする。
おもえば太極拳もそうでした。型稽古なんてすっかりやらなくなってから十数年後、中身のある型動作ができるようになった。
なぜか。

柔らかくて速いシンタイが、知性をもちはじめたからである。
型のために型をやるのでなくて、『シンタイ動作が正確であるために』やる。
シンタイの知性とは決して『頭で考えながら行う運動』という意味ではありません。

フリーライクな動作で身体を開放してゆくと、シンタイの『感性』は高まる。これはこれでよい。しかし『ほんとうの』型動作も決して、感性を閉ざしてしまうような働きにはならないです。知性が備わった感性が、型をやるのです。




つづく

キシン体操





最近いつからか、流鏑馬(やぶさめ)の基本稽古にあるキシャ体操というやつにソックリな運動を、してます。

ほんとの流鏑馬の人達の動作を見たところでは、やや前傾の四股ふみのような姿勢でしたが、乗馬が前提であることと関係あるのだろうか?? しらんけど、私は肥田式仕込みの姿勢が基本なので、上体は真っ直ぐ、腰は新体道並みにガッツリ落とします。

このような運動は、体幹力のない人は全然できないといいます。しかし小笠原流流鏑馬の人達は50回位は反復稽古するらしいです。

だが、あの稽古を、『我慢筋力』をつけて何百回できるようになろうが、シンタイコウ的には無価値どころか有害である。
百年に一人の天才と言われているらしい、次期宗家の方の動作は、格別にブレが無かった。おそらくあの人だけは我慢筋力で動作をしていない。
おそらく、あの人だけは当てずっぽうには矢を放ってはいないのだろう。

私は50回もやってはいない。たとえば十数回やって『これ以上やったら我慢体操になる』というところで止める。
筋トレや、根性スポーツトレーニングなら、そこからが本番なのだとおもいます。だがシンタイコウは逆です。
正中心あたりの腰は、微妙に微妙に可動して、その動作が可能になる。我慢体操は、その微妙さをなくす運動になる。だから絶対にやらない。
だけどたぶん、この運動を地味に継続したら、気がつけば何十回でもできるようになるとおもいます。それは我慢力がつくからではなく、微妙可動力が発達するからである。
真向法が柔軟体操ではないこととよく似た原理なのです。



肥田式強健術は、パッケージングがすごい。つまり1つの動作の凝縮度がすごい。だから反復動作を不要にさせる。その反面、フツウにボンクラな私達は、その凝縮運動をその通りになんて出来やしない。
だが、いくらか分解させれば、わかりやすくなることがある。






『不要不急な外出は控える』





二つ前の記事に『根性不要』と記述しました。
しかし根性という漢字をよく見てみれば、フツーに流通している意味あいとは、本来は真逆の言葉なのかもしれん。
『根の性』とは、我慢や自己虐待に耐える力のことではないのだから。

そういう本来?の意味では根性こそ必要になる(笑)。

言葉、文字は、『固い』。私も、同じ言葉を違う意味で使うことがあるとおもうが、その言葉をその固さのまんま捉えられたら、誤解なんていくらでも生じさせてしまうだろう。ネットでギャンギャンわめきあうことが社会問題になってるのは、画面上の文字が、画面を読む人の頭脳が、硬くなる一方だからだとおもう。

あえて野暮な解説をします。今回のタイトルを、ニュースで流れる言葉と同じには捉えずして、以下お読みくださいませ。
根性不要(必要)、虐待不要、努力不要等々という言いがたを、今回は『ゼロエネルギー』と言い換えることにします。
よーするに、シンタイコウは、いかにエネルギーゼロの姿勢動作呼吸をするかの研磨なのであります。睡眠よりも疲れないシセイを目指すものです。

そんなのナンセンス、有り得ない、と言いたい人もいるかもしれません、『エネルギーゼロなら運動なんて生じないだろ』とフツーは思うかもしれません。けんどの、ちゃうねん。最近つい関西弁が混じりがちだが、、もう少し東に寄せて言います、ちげーら。
『理由のない運動』には余計なエネルギーなんて生じないのです。もう少しスピに寄せて言いますと、愛のある運動に余計な浪費は無いのです。もう少しオレ節に寄せますと、疲れることなど一切したくねーんだよ。




肥田式強健術には姿勢のガイドラインがありますね。腰を反るとか腹を伸ばすとか胸を開くとか。そしてそれをどのようにやればよいかの身体生理学的指南も、古来の武芸よりは詳しく説明されているとおもいます。
近年の運動科学は更に具体的になっていますし、ヨガ的なやつでも、武術でも、より解剖学をもとにしたアプローチが進んでいるかとおもわれます。

そうしたガイドラインは大切だとおもいます。とっかかりになるからです。
しかし、

シンタイは、そんなに固いモノではありません。


つづく






前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2021年05月 >>
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
アーカイブ
カテゴリー