真流事




以前、身体に『副軸』があると書いたことがありました。どんなことを書いたか忘れましたが、そのときの私の身体の副軸感は、竹馬、あるいは神社の狛犬のようなものでした。けれど。その感覚はもっと熟成されつつある。



『中心軸』と『副軸』、計3本の軸があるのかというと、そうではない、が、そうでもある。




↑これ、何個?という質問をするとします。
五個と答えても、一個と答えても、間違いではありません。違う答えもあります。
『陰陽図』を例にしても、あれ何個の図?と問われたら、1個とも2個とも3個とも4個とも5個ともいえる。0個とおもう人もいるかもしれない。

身体軸が3本、別個にあるわけではないのであります。それはグラデーションのようなものといえばいいのでしょうか。 チャクラ図なんかを見ても、縦1本のクンダリニー線が、7色七点に分割されてますが、一点と一点の境界は、ほんとうは非常に曖昧です。1個を七個足してクンダリニーじゃありません。1個が七個にみえるのだ。

中心軸をプリズム観すれば3本にもなるということです。シンタイ軸は止まったままの存在ではない。
そしてこれ、頭で考える話じゃない。理論じゃない。中心軸で身体を扱うほどにわかってくる、事実のはなしです。



次回予定
『うしろの正面とおれ、前後の軸プリズム』

『アマテルクニテルマルゴトヌシ』








てんからのちから



ニュートンの発見した万有引力だけがシンタイに働くわけではない。私達を引っ張っているその地球は、太陽が引っ張っているのだ
(ちなみに月の引力もあるが、そのチカラはスピリチャル的というか、ここで主に云わんとしてる垂直軸のチカラとは少し変わってくる話なのでそれはまたいずれ書く別の記事に譲ります)。

超古代の人々の、太陽崇拝をおもわせる遺跡が世界中に残っています。これを『昔の人の素朴な信仰心』と考えるのは、ちょっと違うとおもいます。現代の私達のほうがむしろ、太陽の恵みを、部分的にしか捉えられていないのではないでしょうか。
私達は、天から放射される光とか熱だけでなしに、もっとまるごと太陽の 恩恵を受けている。


まるごと。


次回予定
『真流事』












ピーヨコチャンだアヒルだガーガー。


やれ、なんてこった。
昨日までの立ち方なんて、まったくショボかったのだった。引力に(チョコン)と乗っていただけである。 全く脱力なんてしておらなかったのさ。

そんな立ち方を、やめられた。すると引力にグーンと引っ張られる!グーンだ!腰はビーンだ!胸はスー、頭は空っぽだ。
俺はここにチョコンとしてなどいない。なんと俺は、いなくなるのだ。でもいるのだ!でもいないのだ!いやよくわからん!
とりあえずチョーラク。

しかしまだそれでも、全身をその地空に任せきれないのである。今まで気づくことなく培ってきたリキミ機能が、少しぶつかるのである。
コレは、私が、私の意に反して??じつはひそかに『頑張ってきた』証しである(笑)。
このガンバリを、ひとまずいたわることにする。御苦労さん、頑張ってきたな。オレ。よくやった。ええじゃないか。







『地空(ちから)』。




睡眠中に夢で何かをしていました。それから目覚めの狭間に移行したとき、寝ながらボディワークをしている自身がいました。夢のストーリーはよく覚えていないが、それは重要な問題ではない。なにがどうあれ、私はそのとき、全身全霊で、やりたいことをやれていた、のです。

脚を振っていた。とても繊細に。
不随意運動に近いですが、完全な不随意ではありません。意識と身体は、かけ離れていません。睡眠中に働く自然治癒力とは違います。確実に体運動をしています。起床してからもその体感、姿勢、動作の質は継続しています。

太極拳やヨガ、あるいは古流の柔術や空手等をやるうえでも、このような意識と身体の関わりかた(顕在意識ばかりでフィジカルばかりを扱わないこと)は、有効、いや必須条件なのではないでしょうか。
また、この行いを、『四六時中修行』というふうには言いたくありません。四六時中セルフ濃厚接触なのです(笑)。顕在と潜在と深層の身心の、三密(笑)なのです。
身体と意識のセッティングをよくすることは、服や靴を身体に馴染ませるのと同じようなことです。ワッショイ。


肚の通りがずいぶん良くなった。足裏から肋骨下までしっかり『肚』である。
ドーンと地の柱が身体の空間に通っている。物質レベルで構成する柱ではありませんから超柔軟で超不動です。
これを地空(チカラ)と呼びたい。


つづく
次回予定
『天空(てんから)』。






スーパーカブが名車な理由を真体功的に3つあげるとすれば、ライディングポジションと車体のバランスとエンジンの回りかただ。



車を運転していて、赤信号で止まったとき、青になるのを今か今かと待ち望んでいると、やたらと止まっている時間が長く感じます。
逆に、止まっているあいだにササッと何かをしようと(カバンの中から飴をとって口に入れるとか)すると、すぐ青信号になってしまう気がします。
どちらにしても、信号は煩わしいものとなる。しかしそうではない場合もある。運転操作が楽しい車とか、初めて訪れる道中を新鮮な気分で走行しているときなどは、ただただ止まっている時間から走り出す時間までをフラットに受け入れる。こういうとき、意識と行為は、濃密なものとなります。

これは何にでもいえることですね。整体やマッサージをしているとき、相手の身体からのメッセージを受け取る作業も同じです。

ケータイの、着信ランプの点滅を、ジッと見ていると、そのペースはけっこう遅い。でも他の何かの事にかまけながら横目でソレを認識している分には結構なペースでピコピコしている。
きっと武道や格闘技では、自分がアセアセしているとやたら相手の動きが早くなって(感じて)しまうはずです。
相手よりも早く動こうとすることが逆に自分の遅さとして反ってくるのは、ゾーンではなくアセリの意識だからでしょう。
さて世の中いろいろ便利になっているけれど、いろんなものがオートマチックになっていくけれど、まるでそれを嘲笑うかのように時間の余裕は無くなってゆく。新商品や新システムのおかげで時間に余裕が出来たわ〜と喜べているのは、束の間です。
その製品やそのシステムが欲しいとおもうその心が、濃密な時間を過ごすことを拒否するためのモノだからです。







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