今朝の坐。



肥田春充の姿勢を観察しました。見るたびいつも、腰が反れてんなあ と思います。しかし、言葉にするといつも同じ『コシガソレテンナア』 は、自身のタイカンのシンカ次第で、その中身は違っています。


正座をしました。私と春充の腰の角度を、鏡で見比べたりはせず、内的に写してみる。私の体は、腰が、反れてるというより『引っ掛かってる』だけっぽいなあと感じる。 それでもじゅうぶんな好刺激が腰〜頭を循環しているので、もっとわざと反り込むことはしない。

クルマやバイクの変速機構を連想しました。春充の腰と私の腰では、ギアが違うところに入っているようだ。
春充腰と同じにシフトするには、いったんクラッチを切ってからでなければスコンと変速できない。つまり腰そのものをギュウギュウやるのは得策でなく、腹とか股関節とかの別のパーツがどうあるかとか、横隔膜やハートや脳の開放の問題である。
それに、エンジンの回転数との兼ね合いがある。エネルギーとカタシロは、同調してナンボなのだ。

さしあたって私は、3速三千回転45q の巡航を、しばし愉しんだ。








その2 シンチメンタルジャーニー



自分にダメ出しばかりしているうちに袋小路に入り、苦しみが極まってしまったとき、スピリチュアルな何かの『ありのままでいい』的な話にとても癒される人は少なくないとおもう。だがまたすぐ、ありのままでは全然ダメぢゃん的な状態に戻ることも、少なくないとおもう。

思考で自分にダメ出しをしようがオーケー出しをしようが、クスリでダメ出しをしようがオーケー出しをしようが、スピリチュアルジャーニーしようが、根本的なことは何も変容しないからだ。


『横隔膜そのまま』もまた同じことです。表層意識で横隔膜をそのままにしておくことには何の意義もない。それだったら圧下させたほうがまだましです。つまり厳密にいうなら『結果、横隔膜はそのまま』なのです。

では一体、何をしたら『結果』横隔膜や腹や腰の姿勢がキマるっていうのさ?その結果をもたらす原因とは、一体どこのナニだというのさ?となるが、それは‥


次回
『ウニヒピリ、出雲、シト。』につづく


死と真生。ってゆーか横隔膜マジそのまま。



シンタイコウ式シン呼吸『デス&リバース』をやっているとよくわかることがある。

肥田春充の行う聖中心道肥田式強健術がとてもとてもとてもアッサリした動作に見えるのは、横隔膜はそのままだから、つまりは『虚勢を全く張っていない』からです。

軍隊式とか西洋式に胸を張る姿勢のその実体は虚勢です。横隔膜を押し下げて丹田を鍛える運動もまた手厳しいことを言えば虚勢です。ビビる身心を強引に押さえ込んでいるのです。
カッと目を見開いたり、表層筋力で胸を張ったり、レッパクの気合いという名の横隔膜筋の随意運動で腹をギュウと固くしたり、自虐的に腰を反るのは、全部虚勢である。そうすることで弱い身心を一時的にだまくらかしておくことはできるかもしれない。

だがシンタイコウとは、たとえるならチキンが軍鶏になるのじゃなく、木鶏になること(笑)なので、そのような鍛練の上積みは、マジでやらないのです。横隔膜いじり、自分の気持ちいじりを手放していくほどに、ほぼ勝手に眉間も胸も腹も開いていきます。いい意味での虚勢になる。スカーンと抜けた身心になります。そこまで虚したとき、姿勢がほんとうにきまります。コアは実勢です。



次回予定
『ウニヒピリと出雲とシト。(とウィルスとか)』




鎮魂キシン道



袴を履いていてその肉体を直に観察することはできないけれど、写真で見る植芝盛平の姿は、とても垂直な感じがする。それはバレエダンサーのようにフィジカルをよく躾した様子でもない。重心、意識、存在の仕方が違うようにみえる。

そもそもその垂直に立てたフィジカルそのもので相手と対峙しているようにもおもえない。彼は空間から自身と相手の二つ(もしくはもっと多数)の身体を操っている。

で、次回
『ウニヒピリと、出雲と、シト。(とコロナウィルス)』

につづく





『腰腹同量』を詳細に検証してみた。


腰をギッチリ反りこむ姿勢は、ビシッとして、側頭部にジーンと気持ちのよい刺激がくる。
腰を据える、腰を入れる、腰のある姿勢とはこのことである。

そこまで反らずとも脊柱を立てて腹に重心を下ろす。たぶんこれが多くのメソッドに採用される、いわゆる『ビーイング』というような状態である。重力にすっかり身を委ねた安心感に包まれる。

そしてそのどちらでもないがどちらでもある姿勢が肥田式でいうところの『腰腹同量』であろう。私はずっと今まで、先に述べた『腰の姿勢』を究め抜いたら正中心姿勢になるような気がしていて、腰をとにかく研ぎ澄ましてきました。それは悪いことではなかったとおもう。

が、 正中心姿勢とはやはり『腰腹同量』なのだ。腰の一点張りではない。 腰の緊張と腹の充実、そのどちらもあるようでいて、どちらからのチカラでもないような、力感がどこにも居座らない、どこにも当たってぶつからない、どこから発生してるのかわからないというか、まるで『腹腰の彼方からのチカラ』の出方がある。

『中間』というものは、肉体物質的には存在しません。棒磁石のNでもSでもない中間は、物質として存在していないのと同じことです。腰と腹の中間あたりにある肉体物質は腸でしょうか。腸は腸で重要な器官ですけど、中心力が腸から発生しているようなかんじは、私はしません。
しかしあえていうなら中心ってのは大腰筋の筋腹の間のことであり、中心力ってのは大腰筋の筋腹力のことじゃね?というは感じはします。

実はジェット噴射もしているというブラックホール的な『働き』が、腰の奥、腹の奥から生じるのである。
それを後ろにちょっぴりずらせば腰の緊張、前にちょっぴりずらせば腹の充実として感ずるから、そうしたほうがアタリがつきやすいけど、本質的にソレは肉体のチカラではないとおもう。だってそのとき(チカラが腰にも腹にも寄らないとき)、肉体感覚は無くなるんだもの。
腰や腹にかぎらず、胸にも頭にも当たらない。だから思考も心拍も余計な稼働をしないのだ。もちろん横隔膜も『そのまま』。
この無くなった肉体感覚のことを『虚無』という。それでも在るアイを、『虚空』という。








前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2020年03月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
アーカイブ
カテゴリー