座禅は普通、尻に座布を敷くらしい。私は敷かない。
一般的な座禅が座布を敷く理由は、地面の固さの緩和とはまた違うところにもあるのではないかとおもう。 姿勢だよ。
『リラックスして、背骨を真っ直ぐに立てる』だけでは、腰腹同量の正中心姿勢に至らないです。 仙骨のキメが足りていないのです。もしかしたら一般的な座禅は、座布を敷いて坐骨に高さをつけて骨盤を前傾さすようなことをしているのではないか?私は蓮華座はやっていないので蓮華座については確かなことはいえないが、正座では姿勢をきめるうえで座布が必要とかあり得ない。
アイテムが無いと完成しない姿勢、とりたいですか? 私はとりたくない。
五輪開催が迫る中、陸上界では、ナイキの厚底シューズが問題になっているという。 ひと昔前の競泳水着のレーザーレーサー問題と同じようなことになっているみたいで、それを履くか履かないかで記録に明確な違いが出るという。
何らかの武器を使う術においても武器の優劣は重要だろうが、姿勢、動作をきわめる道においては、アイテムで記録が伸びるとかなんだとか、どうでもいいことである。むしろ高性能ギアというものは身体感覚を鈍くさせかねない代物だ。
昔、どこかで聞いた話ですが、あるアメリカ人が空手だか合気道だかの日本人の先生に、『俺はそんなことやる必要などない。ピストルがあるからね』とかなんとか言い放ったそうで。そりゃそうでしょうね。ですが私は『道があるからピストルは要らない』先生のほうに賛同する。
私はたびたび『型』を否定するような物言いをしますし、じっさい、肥田式強健術の型を壊して独自のシンタイコウ動作をしています。けれども…
昨日、立て膝から腰を下ろして正座をしようとしたその刹那、『カタに入る』という感覚がありました。 法則に入定するというかんじです。そしてそれがきわまれば『虚空に没する』といったような境地です。
それは窮屈感とか恐怖感とは正反対のもので、睡眠状態で無感覚なのともちがうもので、『ここに在るように在る』ことに何の軋轢もない状態です。なにかが肥大するようなかんじでもない。それは『ザ あたりまえ』なかんじです。あたりまえすぎて透明なかんじです。
しかしこうして重力と肉体にいるかぎり、身心が完全透明に至ることはないような気がするけれども、私達は『このようなカタに入った』のだという気もします。存在の一部として。
一個人の、個体から出発する中心力などというものは無くて、個体でいる以上は大中心力の部分力なのです。地球だか宇宙だかの中心力の通った腕や脚、のまた一部の細胞なのです(笑)。
肥田式強健術は、腰を丸めた動作から、反ったままの動作に変わったことで、大転換を遂げたようですが、丸める→反る というのは腰の外見的変化の説明であって、内部表現的には『力のベクトルが逆回転になった』というのが適切なんじゃないかとおもう。後ろから前に締めていたフンドシを、前から後ろへ締めたのです。肥田式をやっている人ならわかるでしょう?その感じ。
反った姿勢を『腰からくる腹の力』と云った肥田さんの説明は、前から後ろに締めたフンドシを腰でくくるとき腰がグッと入って腹が決まるかんじのことを言っているのです。腰を落として腹を上げるのではありません。腹を落として腰を上げるのだ。そしてそのエンにシンが入ったのである。
もっといおう。チカラのベクトルが逆回転したことは、肥田さん自身の生き方そのものも変えた。『強く生きよう』という意志が逆回転した(落ちた)ら、生死を超えてしまった。
『死なないためには死ななければならない』という仙道の格言がある。
神社参拝をするとき、
祓いたまへ
清めたまへ
守りたまへ
幸わひたまへ
という祝詞を唱えるといいますが。
真体功でシンタイを奉るときの真言がたったいまできたぞ。
わけたまへ
あけたまへ
まるみたまへ
つなぎたまへ
です。真体功というボディワークの要項でもあります。
かえりたまへ
あたえたまへ
たたえたまへ
かかやきたまへ
こちらは大真言だ
ヽ( ̄▽ ̄)ノ。