セイコウ





私は若い頃、立禅をまったくやりきれませんでした。よって太極拳や形意拳の動作をどんだけ覚えていても、しょせんはロボットでしたね。

時節至らず、だったと思います。あの頃は立禅なんてやりきれる機根などぜんぜんなかった。
では今なら『あの頃のやり方で』やれるかといえば、それもまたちがうような気がします。あの頃はただなんとなく『じっと動かないで氣を感じたり回したりする』ポーズとしか理解してなかった。

立禅だろうが座禅だろうが瞑想だろうが周天だろうが、すべからく静功とは、ただじっとしているというウワベだけの話ではまったくありません。そのとき身体のメカニズムはとても具体的にあるのです。シンタイがほんとうに緻密に落ち着いていないなら精神は幻想をさ迷うだけである。

静功とは、動作で誤魔化さない功法です。シンタイのドコにナニがアルのかナイのか、あらいざらい明らかにしてゆく作業です。『どう動くべきか』でなく、それ以前の『どう動いているのか』をハッキリさせる行いです。
じっと動かないのが目的なのではありません。静かにしないとなにもわからずなにもはじまらないから静かにするだけのことです。
じっと動かずして心のチカラで身体をどうにかしようとするのでもありません。心もまた『どうにかされる側』のモノだからです。

そして『動かない』のか『動く』のかという二択でもありません。
合気や強健術の達人は動いていても動いていません。これも観念的心理的な話ではなく、事実、動いていないのです。



つづく

♪もしも 私が 家を建てたなら 竪穴式住居を



マツダ車のことを調べていたつもりだったのに、気がつけばスズキ車を熱心に調べていました(笑)。
ジムニーが気になったものの、最終的に出た一番欲しい車は、アルトのMTである。アルトワークスでなく、一番安いグレード。今ドキの車にしては何の装備もない。窓の開閉すら手動です。

だがそれがイイ。走りの性能に過不足ない(フツーの道をフツーに走れる)なら、他に何も要らん。ルックスも悪くない。エンブレムを見なけりゃメルセデスなのかニッサンなのかサッパリわからない現代の似たり寄ったりの車に比べりゃ、一発でアルトとわかる(現行のモデルなら)。安物の国産軽という偏見で見なければ、フィアットのチンクチェント(カリオストロのルパンが乗ってたヤツ)にも負けてないのじゃないか。超軽量ボディのオカゲで意外にスポーティらしいが、それがまたまたイイ。スポー『ツ』は不要です。ナイキの厚底ランニングシューズなんて要らないのと同じこと。


そしてなんと、アルトとCT125(ハンターカブ)を新車で買ったとしても、150万以下である。それにどちらも大した維持費はかからない。なのに愉しい(はず。)


乗り物なしでも大丈夫な生活圏に住んでいれば、どちらも要らないし、徒歩こそが最高ですが、そうもいかないのであれば、時速50キロでテクテク走る質実剛健な相棒がアルトいいんだよね。

誰か俺に150万ください。その見返りに、ただひたすら恩に着させていただきます(笑)。






ウルトラマントラ






仙術では『錬』と云って、精を氣に、氣を神に変えて、神を虚に還し、虚と自己は合同する、というプロセスがあります。


精、氣、神の、シンタイのルートは、同じではありません。精や氣をなんらかの修行法でどうにかしてたらソレが神に化けるというより、骨盤底にはそれぞれのバルブがあって、そこが開かなければその道は開かれません。そして精や氣は、あくまでも精や氣の道しか通りません。

シンのバルブは、禁欲や腹圧呼吸や意念力でこじ開けられるものではない。そこで人間が唯一行えることは、純粋にシセイをととのえること、だとおもいます。ただのこれを神秘的な術の修行法とかおもう必要はない。



しかし、ただたんにシセイをととのえるとはいえ、それが皆わからないし出来ないのが現実です。ただのシセイをとれるまでの道程があるのが現実です。
さて私は今、正座をするとき、オリジナルの真言を唱えます。

ワキ、サシ、タチ、カムイ、アイ、アオゥン。

これは観念的な作業でなく、漠然と唱える言葉でもなく、具体的にシンタイに指図をしておるコトバであります。
どれがどのような指図なのかを説明するのは長くなるので割愛。


ところで、言霊ってのは、たぶん、母音の響かせかたに、ある意味メカニカルなチカラが発動するのではないかな。

たった一名か数名かは定かでなくどこの誰かもわかりませんが、このブログを真剣に読み込んでくれているであろうかたがいるようです。
アイアオゥございます。







今日は死ぬのにもってこいの日だと、古老のインディアンは云った。





港の公園の、陽当たりの良いところにある大きな木製のテーブルに、大の字に寝転びました。肥田式でいうなら『自然体休養姿勢』です。私は普段はコレはやってません。
視界は雲一つ無い青い空しか見えません。瞳孔はフゲイにしかなりません(笑)。
はて、するってえと、中心姿勢しか取りようのない状況ってのは…などと思考を巡らそうとしても、頭は回りません。んなことどうでもいいわ。
と放心状態でいましたところ、空のスクリーンの右から左へと、トンビが優雅に飛翔してゆきました。

ふと、西向きで寝ていたことに気がつき、北向きに変えてみました。
ますます何もかもがどうでもいい。涅槃とはこのことじゃろかと、ウッスラ&ウッスラと感じているほかに、イシキは芽生えてきません。

仏陀の最期は北枕だったという話が腑に落ちます。 何も残さずシャバを去れるような気がするのです。北枕での睡眠が健康に良いといわれる理由はおそらく、北向きが一番心身をリセットできるからでしょう。

それから南向きも東向きも試しました。東向きも悪くないねとかんじました。そしてふと、では丑寅(ウシトラ)はどうなんだろうとおもい、鬼門(北東)に頭を向けて寝ました。目を瞑っていたが、レインボウのプリズムが観える。そしてシンタイが微細に震動するようでした。どうもこれはまだ研究の余地があることかもしれないと感じました。でもまあなにはともあれ、スンゲエスッキリして、サクサク歩いて帰りました。










カメラ





二匹の亀が河口に棲みついているのですが、最近、子亀も何匹か加わっていました。水面から顔の先っちょだけ出して、みんなでプカ〜と浮いていました。見事な脱力ぶりです。プカ〜という言葉はコイツラから生まれた言葉なんじゃないかとおもえるほどです。プカ〜。
ほっといたらいつまでプカしてるつもりなのだろうかと感じさせるその脱力っぷりには魅了されます。かといって飼育されているペットでなく野生化してますから、人の気配を察知した瞬間、素早い動きで水中に潜り、身を隠します。


今朝も正座をなかなかやめられへんかった。
脱力すればするほどに上体はギンギンに屹立してゆく。思考は剥がれてゆく。
そのとき身体の亀(仙骨)は、直立して浮いているようである。プカ〜というより、ビシーンと浮くのです。

普段は滅多に着用しない、スゲー重くて固くてキツい、ヴィンテージな革ジャンを久しぶりに着たら、スゲースゲー重くて固くてキツく感じてしまいました。なすすべもないほどの着心地ですから抵抗することをやめました。すると、
甲羅を背負った亀のごとく?に、超脱力と超俊敏さを兼ね備えた姿勢が発覚したのです。
それを正座にも応用すると、より一層姿勢が決まる。

いつも何度も言うことですが、正座とは、スポーツや武道などとセットでおこなうメンタルワークではありません。これだけでボディワークです。そしてメンタルワークは勝手についてきます。スピリチャルな本とかブログ情報とかで仕入れた知識など吹っ飛びます。そういうものは、はじめからシンタイにあるのです。






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