主役は誰だ


地上で計測される時間の中では、「今ここ」はどこにも存在しない。「今ここに在る」ために、修行とか瞑想をするとき、目の前のことに集中せよと指南されるけれども、それは今ここにシフトするための「導入部分」。フォーカスした目の前の現実が「今ここ」なわけではない。目の前の現実は諸行無常の響きである。

導入→→響きが聴こえます。諸行の響きを聴いているものがいます

諸行無常の響きを聴いているものを、観ているものがいます。(他人、ではありませんよ)


役者の芝居って、これと同じようなもんです。

役に入る→→相手の台詞が聴こえます。相手の台詞を聴き、相手の台詞に応えるものがいます

相手の台詞を聴いたり応えたりするものを、観ているものがいます。(観客、ではありませんよ)

どんな芝居をするかは観られているものが決めることです。つまり役に没入している役者の仕事です。「とりつかれたような演技」が出来るのは、観ているものが憑依しているのではなく、観ているものがみまもっているからです。ここに、とんでもない自由があります。
役を生きるのは俳優、活かしているのは「ハイユーセルフ」です(笑)。


人の生活って、同じようなもんです。

入る→→







では締めに一句。

鳴いて鳴く そらホトトギス 姿無く









イノセントゥルースペック


もうこの秀逸なタイトルつけただけで私は お腹一杯、これ以上何も書きたくなくなりました(笑)が、それでもなにかしら書きちらしてみることにする。言葉のかけらでもいいのでテキトーに拾っていってください。


腰腹同量の肚エネルギーは、自我からすると「自分ではないもの」となるが、真我からすると「ワタシそのもの」となる。この矛盾的なことをちゃんと言い回すのはむずかしいかもしれないが、私が上手く言えていないとしたら、文がヘタというより、シンタイコウが未熟だからだろう。混乱しているのである。たんにヘタな文を書いてる場合もあるかもしれんけど、エネルギーの未熟ぶりはエネルギー的に感じられるとおもいます。事実、私はたびたび混乱しているもの。

腰を入れない気功と腰を入れる肥田式の、ケイ道の違いや氣の質の違い以上の、決定的な違いについて書きたかったんだけど、まだ未熟だから書けないことが、今この記事を書きながら判明しました(笑)。えらっそうなことは成熟してから書こうとおもいます。今おもってるだけかもしれんけどな。ふん。おぼえてやがれ。






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