地上で計測される時間の中では、「今ここ」はどこにも存在しない。「今ここに在る」ために、修行とか瞑想をするとき、目の前のことに集中せよと指南されるけれども、それは今ここにシフトするための「導入部分」。フォーカスした目の前の現実が「今ここ」なわけではない。目の前の現実は諸行無常の響きである。
導入→→響きが聴こえます。諸行の響きを聴いているものがいます
↑
諸行無常の響きを聴いているものを、観ているものがいます。(他人、ではありませんよ)
役者の芝居って、これと同じようなもんです。
役に入る→→相手の台詞が聴こえます。相手の台詞を聴き、相手の台詞に応えるものがいます
↑
相手の台詞を聴いたり応えたりするものを、観ているものがいます。(観客、ではありませんよ)
どんな芝居をするかは観られているものが決めることです。つまり役に没入している役者の仕事です。「とりつかれたような演技」が出来るのは、観ているものが憑依しているのではなく、観ているものがみまもっているからです。ここに、とんでもない自由があります。
役を生きるのは俳優、活かしているのは「ハイユーセルフ」です(笑)。
人の生活って、同じようなもんです。
入る→→
↑
では締めに一句。
鳴いて鳴く そらホトトギス 姿無く