テニスのラケットや野球のバットには「スィートスポット」というものがあり、そこでタマをとらえることにより、腕には抵抗感もなくタマは勢いよく飛んでいきます。
身体の丹田はこのスィートスポットによく似た感覚があります。姿勢(存在)および動作(発力)において、スィート丹田スポットがあるのかないのかでは大違いです。
スィート丹田スポットのある身体がラケットやバットなら、ではタマって何。
ヒトコトでいうならチカラです。いろいろいうなら引力とか磁力とか、氣とかです。
私は座禅をするとき、まるでラケットのガット(網目)を張るようなかんじで姿勢をとります。肚が立体フレームです。横隔膜と腹と股と腰にガットを張っていきます。そして尾骨と大腿骨にビッと三角テンション、恥骨と坐骨にビッと三角テンションをかけますと、下丹田が形成され、さらにその奥にスィートスィートスポットが生じます。あるいはコダマでしょうか。
そしてこのハラケット内でコダマをピンポンさせたり、上丹田とでストロークしますと、小周天氣功てゆうか大周天の初動のようなことになります。
そうなるとラケットでタマを当てにいく(身体が主宰で氣を扱う)のではなく、ゾーン状態のプレーヤーが言うような「タマが当たりにくる(真氣が主宰で身体を扱う)」ようになっていく。さらに天地人間でストロークする。タマがモトになる。
さて、タマとはまた、魂であるとおもう。仙道とか武道とか禅は、中丹田をくわしく扱わない(ようにおもえる)が、ハートのスィートスポットなくしては、タマシイもへったくれもかたれないのである。
つづく
強健術において、呼吸法を、横隔膜の筋トレとして行うのかそれとも柔軟ストレッチとして行うのかで、腰が反れるかどうかも変わってきます。
横隔膜〜腹横筋〜骨盤底筋〜多裂筋が張り、大腰筋が立って、ハラコシはグルリと連動する。
横隔膜を固くコントロールするということは、腰も固くしか動かない。肥田式云うところの「横隔膜そのまま」とは横隔膜凝固とかいうことではない。固い横隔膜からは固い腰反りになる。つまり腰が反れない もしくは反ると痛い となるわけだ。
横隔膜、ハラ、、骨盤底、コシ、この四方のどこかしらがギチギチだったりダルダルであれば、腰反りばかりに頓着してもロクなことにはならないのです。着目すべきは見た目にわかりやすい腰反りではなく 「横隔膜そのまま」のくだりだとおもいます。
横隔膜と横隔膜直下の大腰筋最上部は、動作の起点、上肚、真中心である。真中心を決めれば直ちに腰も反れるのです。 腹が伸びて→恥骨がぐっと降りて→尾骨がぐいっと上がって→仙骨がぐぐぐと入るからだ。
筋肉を使う、とは、筋腹にチカラを入れるのではなく筋肉の末端の付着部を動かすことである。真中心動作は大腰筋最上部からおこなわれる。
大腰筋の下端は大腿骨に付いています。強健術の、踏みこみによる気合応用動作に関わります。つまりこれ下肚正中心に関わります。
こうした肥田式的な姿勢でつくられる肚は、コソコソしてない。保身のキモチとかなくなる。
しかしニワトリと卵のはなしじゃないが、肚をつくれば肚のある人になれるのか、肚がある人だから肚をつくれるのか。
肥田さん(つーか川合さん)は、はじめ全然肚のない人でしたね。でも、全然肚のない人が、あるとき決意したんだよね。肚の底からね。
シンタイコウの「臥禅」についておはなしします。
脱力して仰向けに寝た状態から、腰腹のコアマッスルだけを使うようにして、踵をズルーッと引っ張ってきて膝を立てます。そこからまた、コアの働きだけを使って腰の反りと腹の張圧をさらにかけながら、今一度踵を引寄せつつ少し宙に浮かせます。 身体はなんとなく無重力っぽい感覚になります。
そしてそこから今度は曲げた膝を伸ばしてゆき、足甲も伸ばして、地面ギリギリのところで水平に浮かせ(膝は伸びきらない程度)たまま静止。 ケツの下部のコアマッスルはめっちゃ使われます。腹直筋をちぢこめたりして体をプルプルさせて我慢するような筋肉運動ではありません。無重力感覚は継続します。
無重力感覚というのは、言葉を替えれば「磁力感覚」ともいえる。地面に貼り付く感覚と浮遊する感覚が両立するといいますか、N極とS極の作用が明快な感じになるといいますか、とにかく身体は臥禅をするとスッキリする。身体の磁力は整い、整うことによって強まるのだとおもう。
ちなみに臥禅は強健術の聖十字体操がヒントになっていますが、女性の性的エクスタシーの様子からもヒントを得ています。
ところで禅の修行僧にとっては禁欲は基本中の基本みたいですが、昔の修行僧は女禁は守るがその代わりに男色に走ったらしい。肉欲を補完してんだろうがよ。とんだキンタマ野郎共である。
仙道で語られるなんだか複雑な修行プロセスよりも、肥田式強健術のほうがずいぶん単純な印象を受けるが、おそらくそれは、肥田春充という人物にその理由があるとおもう。
「機根(キコン)」といわれるものがある。魂の成熟度ってことだろうか。上根の人というのはたぶん、たとえるなら、いちいち633の教育を受けてから大学へと行く必要のないような人である。肥田春充さんには、ふつうなら長年かけて落とさなければならないようなケガレが無かったのだ。ふつうなら時間をかけて練って練って練り込む 肚の陽神がストレートにつくれたのだ。
とはいえ、肥田式強健術の型の深化にもプロセスがあったわけで、最初っから聖十字体操だの下体一発オンリーでは済んでない。はじめは筋トレの人だった(笑)。
だが、あの人は、最初肉体は虚弱ではあっても、ケガレ、歪みは無かったのだとおもう。そして「腹が白かった」のだ。飛び級で天地に通ずる真っ白さだったのだ!
なぜ人には上根とか下根とかあるのかって考えだすと、過去世とかの話まで持ち出すことにもなりかねないですが、私はそういうリーディングはできないから確かなことは言えません。。
そういうのはさておき、今回なぜこのような話を書いているかというと、私はどうも腹が黒くて背骨がねじれていてチキンハートなところがあるんだよなあと、ひじょうにかんじるからなのです(笑)。
「どこそこのパワースポットに呼ばれる」というスピリチュアル系な言い方がありますけれども。それをいうならボディワークは、身体の正中心や真中芯に呼ばれておこなわれるものなのであります。
はじめに呼ばれるのです。そこからおこなう修練を「道」といったり「プロセス」といったりします。
はじまりの声は自分自身でしか聞き取れないものですが、自分自身にはそれがハッキリと聞こえるるでしょう。その声はコトバではないかもしれませんがね。
呼ばれてもいないのにやる奴などいないのです。なぜなら呼ばれてもいないのにやったって、やりきらないからです。やりだした奴は必ずやりきります。なぜならやるしかないからです。なぜなら呼んだのは、コアセルフだからです。
坐禅は優秀なボディワークでしょう。典型的に「何処へもいくところなどない」ことを示す技であり術であり道であります。そしてシンタイコウで開発した「臥禅」もまた、テメエミソですが、素晴らしいメソッドです。私を呼んでいたものがここにあったのだ。
太極拳を習いはじめたとき、「箸を持つチカラがあるなら太極拳は上達できます」と先生が言いました。当時はいささか盛った表現なのではないかと思いましたが、今となってはその意味がよくわかりました。
今ここに在るために、今ここに在るチカラ以外のチカラを鍛える必要など全くない。だいいち、今ここに在るチカラほど強大なものはないのである。