『腰腹同量』を詳細に検証してみた。


腰をギッチリ反りこむ姿勢は、ビシッとして、側頭部にジーンと気持ちのよい刺激がくる。
腰を据える、腰を入れる、腰のある姿勢とはこのことである。

そこまで反らずとも脊柱を立てて腹に重心を下ろす。たぶんこれが多くのメソッドに採用される、いわゆる『ビーイング』というような状態である。重力にすっかり身を委ねた安心感に包まれる。

そしてそのどちらでもないがどちらでもある姿勢が肥田式でいうところの『腰腹同量』であろう。私はずっと今まで、先に述べた『腰の姿勢』を究め抜いたら正中心姿勢になるような気がしていて、腰をとにかく研ぎ澄ましてきました。それは悪いことではなかったとおもう。

が、 正中心姿勢とはやはり『腰腹同量』なのだ。腰の一点張りではない。 腰の緊張と腹の充実、そのどちらもあるようでいて、どちらからのチカラでもないような、力感がどこにも居座らない、どこにも当たってぶつからない、どこから発生してるのかわからないというか、まるで『腹腰の彼方からのチカラ』の出方がある。

『中間』というものは、肉体物質的には存在しません。棒磁石のNでもSでもない中間は、物質として存在していないのと同じことです。腰と腹の中間あたりにある肉体物質は腸でしょうか。腸は腸で重要な器官ですけど、中心力が腸から発生しているようなかんじは、私はしません。
しかしあえていうなら中心ってのは大腰筋の筋腹の間のことであり、中心力ってのは大腰筋の筋腹力のことじゃね?というは感じはします。

実はジェット噴射もしているというブラックホール的な『働き』が、腰の奥、腹の奥から生じるのである。
それを後ろにちょっぴりずらせば腰の緊張、前にちょっぴりずらせば腹の充実として感ずるから、そうしたほうがアタリがつきやすいけど、本質的にソレは肉体のチカラではないとおもう。だってそのとき(チカラが腰にも腹にも寄らないとき)、肉体感覚は無くなるんだもの。
腰や腹にかぎらず、胸にも頭にも当たらない。だから思考も心拍も余計な稼働をしないのだ。もちろん横隔膜も『そのまま』。
この無くなった肉体感覚のことを『虚無』という。それでも在るアイを、『虚空』という。








5 虚空よりの使者




15年ほど前に知ったのですが、『日の出』と定義される時よりも20分位前には、植物は酸素を出し始めるそうです。すると鳥達が目をさまし、鳴き始めるのだそうです。

隣の家にはニワトリがいます。その鳴き声をいくら聴いていても、クックドゥルードゥルー などとは言っていない。どうなってんだ欧米人の耳は。ですがよくよく聴いていると、コケコッコーとも言っていない。

ヴぁっオオっオーゥ

である(笑)。


それはさておき、ぅアオッオーウという音に対して脳で『ニワトリの声』と認識するのは、コンマ何秒かの誤差があるはずで、ニワトリの声をトリガーとして意識無意識を問わずあらゆる思考アンカーが働くのはまたさらにそのコンマ何秒後であるはずで、純粋に音のバイブを受けてからだいぶのちに人はそれぞれの反応しているのである。頭の回転が速いとかいう褒め言葉があるが、たとえそんな人だって相当遅い反応しかしていない。

かつて、百メートル走でフライング失格とされたことに猛抗議をしていた黒人選手がいました。音が鳴ってコンマ何秒か以内に動いてもフライングなんだそうで、脳はそんなに早く音を認識できない、もしくは音を聞いてからの脳の指令からそんな速さで人は動けはしない、的な科学的見地によるものらしい。
だがその選手はずっと抗議をしつづけた。自分は絶対に音を聞いてからスタートしたんだという絶対の確信があるかのような抗議っぷりでした。

私はその様子をなんとなく見ていてなんとなくおもった。超ゾーンに入れば、人は、脳の信号を待ってそれに従うことはないだろうと。

新聞紙を突く練習に集中していたとき、突き破ったそのほんの少しあとからボンッ!とその音が聞こえたことがありました。また、何枚も重ねた新聞紙が破れるかどうかは破る前からわかることはしょっちゅうあります。自信や慢心によるものでなく、なんだか客観的な感じに、それを知るのです。

シンタイは肉体ほど遅くない。肥田さんは、かなりの桁数の数字を適当に書いたであろう多角形のサイコロを複数個、適当に投げて、出目が揃う前から答を言っていたというとんでもない能力があったらしいが、それはやはり、聖中心に至ってからの彼は、もう半ば肉体には居なかったからだとおもう。





4 チャラ手バカ一代



この記事の前に『3 カッケー』というタイトルの記事を昼間に上げるはずだったのですが、書き終わった時点で何故か消えてしまいました。『カッコつけはじめたときがカッコ悪くなりはじめたときだった』と締めくくった、私の過去の精神的&肉体姿勢的な内容の話でした。再び書く気にはなれないですが、少し似たような内容の話をつづることにします。


シンタイコウ式『チャラ手』がチャラくてチャラくてチャラチャラで、五輪競技の空手の型みたいには全然格好よくないです。下半身はかなり確りしていますが、上半身はチャラっチャラです。とはいえ使えない手ではありません。人に突いたらグサグサ刺さるとおもいます(笑)が、どうやら、このエクササイズをすることで私は、『胸をほどいている』ようなのである。


おのれの恥部をさらけ出しているかのような、そしてとても誠実な感じのする、ある人のブログを知っています。とても心に響くものがある内容です。その人の半生のエピソードのインパクトゆえの興味深さも多分にあるとはいえ、やはり一番伝わってくるのは、その人自身のハートです。ダークな内容の、大多数の人がドン引きする肩書きの人であるが、私は誰かの加工写真やら食事の写真やらなSNSを見ているヒマはなくとも、その人のハートが伝わってくる文からは目を逸らすことができない。ときどきあまりにも痛々しい話も出てくるが、その人はどうやら自分に落とし前をつけようとしているようで、その様子は潔い。


さて、肚のボディワークであっても、いや肚のボディワークであるからこそ、胸の開示は必須だとおもう。それは他人に対してどうすべきかという社交的な話ではありませんし、随意筋力でどれだけ胸を膨らませられるかでもありません。まず自己に対して、明け透けにならなければ、肚の正中と胸の正中がつながらないのです。


ではこの言葉でこの記事を締めくくることにします。『ココロのお利口さんになろうとしたときが、ココロのおバカさんになりはじめるときである』



次回予定
『ウニヒピリ、出雲、シト』







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