行識



クリシュナムルティの対話本を読むと、相手の『どのようにしてそうすればいいのですか』という質問に対してK(クリシュナムルティ)はすぐに、『どのようにして、とは問わないでください』と制するやりとりが多発しています。
自我の働きを滅する話をしているのに、自我に答えを与えるわけにはいかないのでしょう。しかし多くの対話者(成人、現代人、特に西洋人、特に男性)は、どのように?という問いを遮られたら、どのようにしていいのかサッパリわからなく(笑)なります。

なにかを『する』ことでなにかを獲得してきた(つもりになった)者の性は、物事は『どのようにするか』でしか計れない。なにかをしなければなにも得られはしないという法則?哲学?から脱することができないのです。歴史はそうやってつくられました。アボリジニの云うところの『ドリームタイム』の輪が、そうして破られてきました。



座禅なり瞑想なりでかんじる『無』とはすなわち自我のオシャベリの停止である。坐しているとき強烈かつ透明にかんじる『在』とソレとは全く矛盾していない。









『姿吸』と『呼勢』


なんらかの運動を覚えようとしたり一所懸命やろうとするとき、随意筋が働く。しかし東洋体育やメソッドは、たいがい、不随意筋をよく働かすシンタイを求めるものなので、最初のうちは西洋的トレーニングほど簡単にはいかない。最初から矛盾と直面するからです。

私は呼吸法はとくにこだわらずシンタイコウをしてきました。随意筋を優位に働かす呼吸を嫌ったからです。しかし姿勢にはこだわってきたということは、姿勢において余計に随意筋操作が働くリスクは避けられない。 モノゴトを『やる』のには功罪があります。真体功という名の真体罪が孕んでいます。しかしそれでも不随意運動が活性して優位になってくれば、罪は罰ではなく功に転じます。

シンタイコウのシンコキュウは、腹式というより『仙骨式』というかんじです。逆腹式に似ていますが、腹や胸をどうするかというより、仙骨のフイゴ運動です。不随意優位で直立した姿勢に、不随意優位な呼吸が乗ります。ここに姿勢と呼吸の完全な一致があります。
スガタカタチは消え、イキオイが出てきます。




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