クリシュナムルティの対話本を読むと、相手の『どのようにしてそうすればいいのですか』という質問に対してK(クリシュナムルティ)はすぐに、『どのようにして、とは問わないでください』と制するやりとりが多発しています。
自我の働きを滅する話をしているのに、自我に答えを与えるわけにはいかないのでしょう。しかし多くの対話者(成人、現代人、特に西洋人、特に男性)は、どのように?という問いを遮られたら、どのようにしていいのかサッパリわからなく(笑)なります。
なにかを『する』ことでなにかを獲得してきた(つもりになった)者の性は、物事は『どのようにするか』でしか計れない。なにかをしなければなにも得られはしないという法則?哲学?から脱することができないのです。歴史はそうやってつくられました。アボリジニの云うところの『ドリームタイム』の輪が、そうして破られてきました。
座禅なり瞑想なりでかんじる『無』とはすなわち自我のオシャベリの停止である。坐しているとき強烈かつ透明にかんじる『在』とソレとは全く矛盾していない。