第一の脚、つまり肚を絞って絞って絞りあげる。
それは肥田式的にいうところの『腰のギュッ!』のそれと同じこと。
より具体的にいうと、左右の脊柱に貼り付く深層筋を、ギューッと絞る。絞って絞ってしぼりきる。腹は伸ばして伸ばして伸ばしきる。
胸も開いて、脊柱左右の筋を身体の中側にでなく外側にたたみ合わせて縄で締めていくように。



するとパカッとなる。



スピリチュアル系のメッセージでよく『手放しましょう』てのがあります。ネガティヴを手放しましょうとか、自我コントロールを手放しましょうとか。
それを『やる』のは誰なんだよってはなしです。絞りきったあげくにしか放たれないことにおいて、我々が出来ることは、放すことではなく絞ることです。
またそれは、突き蹴りの稽古をくたびれてもやめないで頑張り、やがてふと力の抜けた動作をできるようになるランナーズハイ的なやつのように、時間をかけたあげくの一時的な脱力体験ではありません。


絞る、とは意識的にとるシセイだから、随意運動ではあるけれども、あくまでも『快』に導かれるように絞られてゆく半不随意的な運動です。チンコの膨張と同じようなもんなので苦痛に耐え忍ぶ必要はありません。
そしてパカッは不随意でしか起こりえない。ギューと絞るのは半分随意で『やれる』ものの、パカッとは『やれない』。

ちなみに弓道でも、矢を放つことを『はなれ』と云うみたいです。引き絞った弓は正に放たれるんだな。かたやアーチェリーは狙い撃ちのテクニカルスポーツつまり『やる』やつなのか?でも究めた人なら自然と弓道的になってるんじゃないの。知らんけど。


パカッは、事に先んじて想像はできません。想像でアタリをつけて得られるものはパカッそのものではなく想像の産物である。『想像』と『確信的なビジョン』は別物です。が、確信的なビジョンもまたビジョンであってパカッそのものではない。