「今、ここ」 の今とは無限、空 であり、ここ とは制限された一個として確かにある、色 である。

さて肥田式強健術でこれをあらわしてみよう。

吸気(準備動作)において、すでに「ここ」に確かに在ることが肝要である。吸気(準備動作)で「今」からエネルギーを集めて呼吸(本動作)でそのエネルギーを下肚(ここ)に集約させる、といったテイの運動では、全くないのです。
常に「今」に在れるなら姿勢で「ここ」にも在れるだろうが、普通の私達(あるいはボディワークの特性として)はまず、「ここ」に在ることが先決される。

「ここ」を確かにするのは基本ではあるものの、「ここ」に執着するならばそれはいかにも即物的な体術である。肚に据わるというより重心の居着きである。


今か、それとも ここか という二者択一の運動をするわけではない。今即ここ ここ即今 の運動である。モチロン、「今でもここでもないどこか」を加えた三択でもない。


ここに在りながら今に在るという多元的な作法は、平面的な物理の原則に従っていてはおぼつかない。かといってスピリチャルっぽく「今ここ」と観念したところで行き着くところはどこにもありゃしない。それは夢気分、幽玄の世界の話である。
本動作は集約ではなく発火である、クロスポイントからの拡がりである、完全放棄である。
簡易強健術は「ここ」を確かにする運動である。しかしながら「ここ」は消滅させられる。そして「今、ここ」に再びある。それが肥田春充の至った運動である。