ただ座して下肚に在るというこの感じは、「在る」に至るまえに「無くなる」という感じも伴うこともありえるので、人は反射的にそれを拒否するのだとおもわれる。自己が無くなる感じがするからである。

無くなるとかなんとかに構わず何もしないでおるなら、下肚には「種」が生じている。おそらく肉体からオサラバするまでは、そこには種が生まれる。

肚のボティワークは、座禅と本質は変わらないのだとおもう。ただ、ボティワークはもっと上肚をダイナミックに使う。ダルマさんとダルマ落としみたいな違いがある。

どちらかであるならばどちらかではないというものではない。動いている事と ただ在ることは共存するのです。それが六茫星の肚。

六茫肚は唯我独尊的に孤立しているようでもあるが肉体というくくりを超えてもカゴメ紋のように無数に連なって繋がっているようでもあり、そのどちらかであるならばどちらかではないということでもない。

何もしないということは、何の活動もないということではない。随意筋や交感神経で働くばかりがヒトの行動ではないのです。不随意筋や副交感神経に、意に反した支配や翻弄をされているわけではないのです。


何もしないことなら、誰でも今すぐ出来る。オリンピック選手になる人は限られるけど、これは誰でも、即、何もしなきゃいいだけである。
脳や筋肉の努力一切不用、自分不用、時間不用。六茫肚はタダで在る。

瞑想行などでは、湧いてきた思考をただ眺めろといいますけれども、ボティワークでは、湧いてきたチカラをただ眺めるのです。