火事場のバカ力 を発揮しているときというのは、漫画や映画っぽく「ぬぉぉお!」なんていかにもな超気合いを入れているわけではありません。 ただそれをやってるだけ、というウルトラフラットな状態です。

新聞を突き破る練習や上体を起こす練習のときに気づくことなのですが、拳や体に「やったった感」は何も残らない、「いかにして」上体を起こすかなどという身心の分離などない、そんな「何もない」のがベストなんです。手を振ったらその途中にあった新聞紙が破れました、上体を起こしたから起きました、ほんとうにただそれだけ。

整体術もそう。はじめはツボを捉えた感や何かをしてる感を学ぶ。しかしそれを超えると感触は無くなってくる。「やってる感」は限り無く薄まる。

でも、そうできるまでにチューニングつまり出来ないこと出来ること両方を味わう、知る、といった経験を踏むのが私達のやり方でした。

肥田式簡易強健術やそれを模した真体功法でも同じようなことがいえる。肚腰に得る力感は、ある意味、ドアをノックしてるようなものです。あるいは昔のテレビの手回しチャンネルを変えるときの、パクっパクっという感触。

しかし真の目的とは、行為とは、開いたドアの向こうに行くことであり、変えたチャンネルの番組を見ることです。中心力にリキ感は無い。中心なんて、相対的には絶対に無い。しかし、無い=ただそれだけのことを行うために、私達は、中心とか火事場とか、出来るとか出来ないとか、無くない&タダじゃないことをわざわざやってきているのです。見事に。



あぁ あれは最後の女神

まぎれもなく キミを待ってる

あぁたとえ 最後のロケットが

キミを残し 地球を捨てても