背スジと肚の空洞の存在を感じる。胡座をかき背を丸めているときに。
真体姿勢をとると、その存在感がなくなる。 ハマるからです。
存在と、存在を感じている者の区別がなくなるからです。
人を整体しているときに触れるべき処に掌が触れたとき、施術者と被施術者の区別が無くなる感じと同じようなもんだ。


そこで呼吸。吸気で頭にジーンと快感。それをノドー胸ーを経過させ肚へ落っことす。
先ほどの姿勢の話と同じで、ここでは、氣を感じている者と氣の区別があるわけです。肚へ落としたときその区別はかなり無くなりますが、何かを感じようとする私の意思が、三昧を妨げます。三昧を感じたくて三昧を妨げる。なんという矛盾でしょう。氣が氣じゃなくなるのが気が気じゃないのでしょう(笑)。
悟りを求めて修行をする人のほぼほぼが悟れないのは、悟りを求めるその意思によるからでしょう。

ですから、氣とか周天とかを「やってる」「つもりの」「私」は、大周天とか聖中心とかってゆう、因果で辿り着く世界ではないところのものは、「やりようがない」のです。