肚が据わるのは、ハラに氣がボットンと落ちるようなかんじです。
体の操作(アウターマッスルでの骨格の操作)、横隔膜の操作、気負い的な気合いでハラを据えても、重心は落ちきらず石頭になり全身はフリーズします。
このとき(肚がすわるとき)、横隔膜は瞑想状態が求められる。眠らせず騒がせず、不安定に安定し、軟水中の軟水の分子構造、のように。
腰を反って決めた状態が常にあるべきとはおもえません。丸まったり、左右バラに動いたり、色々あって然るべきです。腰の決まりは「絶対条件」ではなく「決定条件」だとおもいます。
次回「愛しています」(予定)
捉えるということ、即ち、囚われるということナリ。
中心感覚(らしきもの)、中心力(のようなもの)も然りですね。捉えたつもりのその者は、囚われた者です。
人はマインドで自分を司っているつもりでも、マインドに囚われているとも言えます。ナンチャラシンキングを実践するだのマインドコントールしただのされただの、司令塔はそのままに司令官を変えたり鍛えたりのっとられたり、いろいろやる。
「癒し」を商売にするにはマインドに満足を提供してナンボです。しかし、マインドの満足やすげ替えをやっていたってどうにもならん、というところにぶち当たっている人もいます。
マインドをどうにかするのが気功だと思っている人(素人、気功師問わず)、マインドの修行か何かをするのが仏の教えだと思ってる人がいますけれども、違う。マインドは、ほっといたほうがチカラは出る。ホットケ。ホトけ。
ボディは本来フラットです。フラットすぎて、司令塔や司令官の命令にも従いますが、従者であることがその使命であるとは限りません。
次回予定「愛しています」