ノージャッジで観察行をすることがなぜ難しいかって、それは自我の発達&小学校に入ってジャッジーな生き方にまみれてきたからです。勉強の話だけではありませんね、スポーツマンだろうが不良(昨今はヤンチャと称するみたいですが。ケッ←ジャッジ。)だろうが、ジャッジジャッジまたジャッジ、間髪入れずにほれジャッジ。アウト!セーフ!ヨヨイのヨイ!!

で、それに苦しみはじめて、瞑想行などはじめても今度はノージャッジ観察出来てるか否かををジャッジします笑

ジャッジしてる自分を観察するところがはじまりなのですが。。染み付いたプログラムってすごいですね、アタマでノージャッジ行なんてはじめた日にゃあ、なんの行為も出来なくなるし自我が自爆します。

そして結局それが出来ないとまた戻って自己憲法を改ざんします。例えば第9条「他人に迷惑をかけない!」について、
実際問題他人に迷惑をかけない人はいないので、条文や項目を加え続けます(笑) 現実、武装化します。でまたそれをジャッジします\(^o^)/

ではそもそもノージャッジ観察なんてする必要があるのか?←ジャッジ。

しようと思ってできるものではないのでしょうし、必要のない人に必要はないのでしょう。ですが、これはもともと、誰しもが、はじめに行っていたコトなのであります。なんもせんでも。。←ノージャッジ←ジャッジ←観察(-_-) 観察(゚o゚) 観照('◇')

エンドレス

エンド。